イギリス・フォード、17%もの賃上げに応じる
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1978年7月、大蔵大臣デニス・ヒーリーは、8月1日からの一年間の賃上げ交渉の上限を、5%にするという提案を白書で発表した。
キャラハン首相は翌年の総選挙を見据えて、景気対策も踏まえて3%にすべきだと考えたが、他の閣僚の説得で5%というラインとなった。
この提案はもはや「社会契約」ではなく、単なる「目安」の発表になってしまったのだが、TUC(イギリス労働組合会議)は当然のごとく拒否した。
そして賃金上昇率5%は守るべき上限ではなく、「突破すべき目標」に変わってしまった。
この5%制限がどの程度守られるのか、最初に注目されたのが、イギリス・フォードの労使交渉であった。
イギリス・フォードは主要な社会契約参加企業であり、とりあえず5%の賃金引き上げを労働組合に提案した。
しかしTGWU(Transport and General Workers' Union:輸送業労働者組合)は9月22日に非公式ストを開始し、10月5日の公式ストには5万7千人の労働者が参加した。
ストの最中に開かれた10月の労働党大会では、「政府は賃金交渉の介入を直ちにやめろ」と過激なミリタント派が気勢を上げた。
キャラハン労働党内閣は、イギリス・フォードが、5%の上限を超える新提案をすることを察知したため、TUCに対して選挙のために団結してくれと要請した。
しかしTGWUの新代表は5%上限を否決し、フォードのストは長期化の様相を見せ始めた。
その間に8%以上の賃金アップで妥結する企業も現れ、フォードも提案を見直さざるを得なくなり、なんと賃上げ率を17%まで引き上げてしまった。
7週間に及ぶフォードのストは結局、11月22日に妥結して決着したが、この17%の賃上げの衝撃はとてつもなく大きいモノだった。
タンク・ローリィ運転手、全国ストで陸運を止める
イギリス・フォードから17%もの高率の賃上げを勝ち取ったTGWU。
次なるターゲットは、BP(英国石油)やEssoなどのガソリンを運ぶ、ローリィ(lorry)運転手の賃上げ闘争だった。
ローリィとはタンク・ローリーのような、重い荷物を運ぶ長細い大きなトラックのことだが、ローリィ・ドライバーは12月中旬に、40%の賃上げを求めて残業拒否ストを始めた。
タンク・ローリィが動かなくなると経済が止まってしまうので、政府は危機に備えて軍を待機させ、石油会社も危機に陥る前に妥結しようと、15%もの賃上げを提案した。
しかしTGWUは15%もの賃上げに目もくれず、翌79年の1月3日、全ローリィ運転手に非公式ストを指令した。
タンクローリィが止められた結果、ガソリンが届けられなくなり、イギリス全土のガソリンスタンドが休止に追い込まれた。
この非公式ストは、1月11日に正式なストとなり、翌12日にはイギリスの輸送・倉庫業の労働組合であるURTU(United Road Transport Union:イギリス陸運業労組)もストを開始した。
TGWUは主な港にもピケット(スト破り防止の見張り人)ラインを張り、主な精油所にもピケットラインを張り、稼働しているローリィがあれば飛んでいって止め、ストを徹底させた。
これによってイギリスの陸運の80%がストップし、この混乱で100万人以上の労働者が一時帰休に追い込まれた。
TGWUの狙いは賃上げではなく、明らかに示威行為であり、イギリスの運輸を自由にストップできることを国民に示すことだった。
政府はストの指導者に対して、最低限の物資の輸送だけは確保するように申し入れたのだが、何が必要物資であるかは彼ら陸運業者の判断に任された。
その結果、家畜の餌などが運搬されず、農家では家畜を処分しなくてはならなくなった。
農家は怒り、家畜の死骸をTGWUの事務所の前にぶちまけた。