英国労働党の新しい民主主義「第三の道」記事一覧

1979年、「不満の冬」の後に行われた総選挙では、サッチャー率いる保守党が地滑り的大勝利を収め、第一期サッチャー保守党政権がスタートした。選挙で大敗した労働党は、キャラハンが党首を辞任し、新しく党首に選ばれたのは、ベテラン議員のマイケル・フットであった。マイケルフットは「トリビューン・グループ」と呼ばれる穏健左派グループの1人で、労働党では戦後初の左派出身党首となった。ちなみにこの「トリビューン」...

サッチャーに敗北した労働党。その原因は労働組合の言い分をずっと無視してきた労働党幹部にあると、労働組合側は考えた。労働党の党首はそれまでずっと、労働党議員の互選で選ばれていたため、傘下の労働組合が左傾化しても、党首は右派の現実主義者が選ばれていた。戦後初の左派党首マイケル・フットにしても、左右の調整役としてのベテラン起用であり、バリバリの左派党首というわけでもなかった。しかし左傾化した労働組合にと...

1983年、労働党の新党首となった41歳の若きホープ ニール・キノックは、炭坑夫の父親と看護師の母親の間に生まれた、まさに「労働党の子供」であった。経歴もウエールズ出身で、炭坑で働いたり、警察で働いたり、軍で働いたりした後に大学へ進学した苦労人で、大学もウエールズ大学傘下のカーディフ大学という、非エリート大学の出身であった。ニール・キノックはトリビューン・グループ(穏健左派)の一員で、前党首マイケ...

労働党改革を進めるキノックを待ち受けていたのは、加入戦術によって労働党に潜入していたリバプールのミリタント派の悪評であった。リバプールは北西イングランドに位置する貿易港で、産業革命以前から、北アメリカと西アフリカを結ぶ三角貿易で栄えた街だった。奴隷貿易で発展し、アイルランド移民も多い街で、貿易と繊維産業が産業の主力であったが、第二次世界大戦時にドイツ軍の爆撃で壊滅し、繊維産業も戦後、急速に衰退して...

レート税(Rate tax)とは、イギリスの伝統的地方税である。レート税は土地や建物にかかる固定資産税で居住用と非居住(事業用)の2種類があった。居住レートとは住宅(部屋)に課税される税で、事業用レートとは事業を行うための土地や建物に課税される税金だ。居住用レートには様々な減免措置があり、低所得者が住む小さな部屋には殆ど税金が課せられない。なので結局、ちゃんとした家に住む熟練労働者以上の人と、お店...

イギリスでは、地方税はレート税(固定資産税)だけである。政府は教育や医療、警察や消防など、最低限の公共サービスを提供するために、一般交付金と特定補助金を支出するが、それ以上の公共サービスは地方税で賄う。そして地方税の税率は一定ではなく、毎年変わるのがイギリスの地方税だ。イギリスでは、政府から補助金以上の支出は、全て地方で賄うというのがルールで、その分、地方税率の税率が引き上がることになるのだ。なの...

84年の一年間に渡る炭坑労組のストと、85年のリバプール市議会でのミリタント派の暴走。これによって労働党は、さらにイメージを悪くし、「不満の冬」直後の79年の総選挙以来、サッチャーに3回連続で敗北を喫してしまった。1987年の総選挙を前に、キノックは労働党のシンボルを赤旗から赤いバラに変更し、テレビ報道を意識したモダンなスタイルで演説を行い、必死に新しい労働党をアピールしたが及ばなかった。得票率(...

1989年、サッチャーは地方税改革に着手した。サッチャーは財政赤字削減のため、教育・福祉・軍事の3部門について、様々な削減策で赤字を減らそうとしていたのだが、失業者が3倍にもなったため失業給付が増大し、なかなか財政の黒字化が達成できなかった。そこで地方議会の支出をチェックし、一般交付金など地方への支給を厳しく削減していたのだが、別の問題が出てきた。というのは、ミリタント派に支配されたリバプール議会...

サッチャー辞任のあとを受け継いだのは、サーカス芸人の息子で貧困地域出身のジョン・メージャーだった。メージャーは大学進学は諦めて労働者となった人物で、職を転々とし銀行の見習い事務員となった。そこでマネジメントを学び、外国為替部門に引き抜かれ、10年で営業部長に昇進、会長補佐役も務めた。イギリス企業には年功序列はなく、能力主義で昇進が決まる。なので大学を出ていなくても昇進できるし、階級と仕事も別という...

イギリスの完全小選挙区制というのは、全国の選挙区の過半数で支持を得ないと、国政を担当できないという厳しい仕組みである。いくら自党の地盤選挙区でたくさんの得票を得ても、それは一地区での熱狂的支持に過ぎず、国政を担当する資格を得ることができない。そりゃそうだ。いくら特定の地域で熱狂的な支持を集めても、それによって国全体の舵取りを担う権利を与えられたらおかしい。たとえば橋下氏率いる「大阪維新の会」が、総...

イギリスの総選挙の勝ち負けを分けるのは選挙ごとに投票行動が変わるスウィング選挙区で議席を獲得できるかどうかである。イギリスでは保守党候補が毎回議席を獲得する選挙区が約200、労働党候補が毎回議席を獲得する選挙区が約200ほどあって、これらの選挙区ではほとんど無風状態だ。しかし「スウィング選挙区」と呼ばれる激戦区が約250ほどあって、ここでいかに多くの議席を獲得できるかが、勝敗を分ける。そこで労働党...

1980年頃から、西側先進国では工業社会の行方が盛んに議論された。産業革命から約300年の歳月がたち、世界はどうも違う時代に入ったようだという様々な状況証拠が出てきたのだ。そしてトフラーなどの未来学者たちは、西側先進国では工業化がすでに完了し、次の時代への変化が始まっていると主張した。トフラーによると、工業化は標準化(規格化)専門化(分業化)同時化(同期)集中化規模の極大化という方向性を持った変化...

1985年 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の第8代共産党書記長(最高指導者)に、ミハエル・ゴルバチョフが就任した。ゴルバチョフは最高指導者に就任するやいなや、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)の必要性を訴え、ソビエト連邦の経済改革に乗り出した。ソ連は、1917年のロシア革命(2月革命)後、共産党(ボリシェヴィキ)による軍事クーデターによって誕生した世界初の共産主義国家であったが、...

1989年、ソ連のゴルバチョフ書記長は東欧への内政不干渉を宣言し、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊した。そして1991年にはソビエト連邦は解散し、それぞれの国家が独自路線を歩むことになった。ソ連解体後、共産主義国での悲惨な経済状態がどんどん明るみに出て、共産主義や共産党が、いかに経済をダメにするのかがハッキリした。長年に渡って基幹産業の国有化など、共産主義的政策を主張していた労働党にとって...

新党首トニー・ブレアは、労働党を倫理的社会主義政党に戻すため、党綱領第4条に掲げられていた「生産及び交易手段の国有化」の削除を何が何でも成し遂げる決意を固めた。この党綱領第4条の取り決めは、労働党が政権を獲得した場合に、組合が企業の国有化を労働党に迫る根拠だった。しかしそのためにイギリスの基幹企業のいくつかは、総選挙のたびに経営権が替わり、労働党が政権を取ると国有化され、保守党が政権を取ると民営化...

1995年、3ヶ月に渡る全国遊説を行い、労働党の新方針と党綱領第4条の改訂を訴えて回ったトニーブレア党首。のべ3万人の党員との直接対話によって、臨時党大会では党綱領の改訂に成功し、労働組合などの既得権益に切り込める「新しい労働党リーダー」を広く国民に印象づけた。第4条の改訂は国民に好意的に受け止められ、直後の地方選挙では保守党に圧勝し、労働党復活を印象づけた。しかしブレア党首の次なる課題は、新しい...

1997年5月、18年ぶりに政権の座に就いたブレア労働党。43歳のブレア首相率いる労働党が、どのような政治を行うのかに注目が集まった。ところがブレア新首相は、何もしなかった。予算の大枠は変えず、サッチャー政権が目指した財政赤字改善路線を引き継いだ。すなわち国債は増やさない教育や福祉関連の予算も増やさない中央銀行の独立性を高め、政府は金融に介入しないと言うことを遵守した。これは今までの労働党政権では...

第二次世界大戦後にアトリー労働党政権は、荒廃した国を立て直すために基幹企業を国有化した。医師や看護婦を公務員として無料医療制度を作り、救貧制度(老齢年金)や公営住宅の建設によって、国民に取りあえず生活できる環境を作り、福祉国家を作り上げた。ところが復興がすっかり完了した70年代になると、福祉のバラマキによる財政赤字が深刻になった。また基幹産業の労組が国のインフラを支配して、毎年のように数週間のスト...

サッチャー政権下では教育改革も行われた。その主な内容は、全国カリキュラム策定、全国学力試験の実施カリキュラム審議会による学習到達目標の設定入学定員の自由化と生徒数に応じた予算配分公立学校の国庫助成校への移行促進内ロンドン教育局の廃止都市工業高等専門学校の設置というものだった。イギリスの学校は、歴史が長いだけあって、種類も様々だし、年限も様々だった。たとえばオックスフォード大学などは800年も歴史が...

90年代後半のイギリスでは、学校の荒廃が大きな社会問題になっていた。校内暴力、イジメ、自殺、十代の妊娠などが話題になり、小学校での銃の乱射事件も起こった。退学処分になる学生も急増し、92年には、退学処分の生徒は約2,000名だったが、96年には、退学処分者は1万3,000人まで増えた。いじめ問題で学校を訴える親も増え、学校側に慰謝料支払い命令が下ったケースも出た。学校が荒廃した原因には、教育への市...

イギリスの学校崩壊・教育崩壊の原因は、家庭崩壊が原因だという説も出された。イギリスでは、十代の母親が増え、離婚率が跳ね上がり、単親家族が増加していたのだ。イギリス社会は元々晩婚社会であり、14〜15歳で奉公に出て20歳前後で独立し、20代後半に結婚するのが普通だった。ところが離婚率は70年代の2倍に増え、なんと40%でEU諸国内でトップ。十代女性の妊娠率は、16歳以下で0.46%、16歳から20歳...

90年代後半、学校崩壊と教育の失敗が社会問題となった頃、家庭に対する見解は、保守党と労働党でハッキリ分かれた。当時、政権の座にあった保守党は、離婚率が上がり、十代の母親が増えて、母子家庭が増えてしまったのは、労働党の補助金政策のせいだと主張した。つまり手厚い福祉と家族手当が多すぎたために、イギリス女性は気軽に離婚という選択をし、母子家庭が増えたのだという主張だった。保守党は、フェミニストに対しても...

NHS(国民保健センター)とは、第二次世界大戦後の1948年に発足した、イギリスの国民無料医療制度だ。イギリス経済は第二次世界大戦で、ドイツ軍の爆撃によって甚大な被害を受け、国もGDPの2倍半もの借金を抱えていた。そこで戦後復興の名目で基幹産業を国営化し、資源配分を復興のために優先させた。また医師や看護師を公務員化することによって、国民に無料で医療を提供できる仕組みを作り、戦争で疲弊した国民の健康...

イギリスの医療サービスを担っているのは、無料の国民保健センター(NHS)である。NHSは国営の医療サービスであり、150万人もの従業員を擁する大組織で医療サービスをほぼ独占する利権団体でもあった。そのため競争原理が働かず、雇用確保と賃上げを優先したため、設備の更新が先送りにされて老朽化し、年を経るごとにサービスの質が落ちていた。そして労働党政権下の1978年のゼネスト「不満の冬」では、看護師や補助...

イギリスの国営医療サービスNHSは、70年代からサービスが悪化し始めた。そしてサッチャー保守党政権下の80年代〜90年代には財政赤字削減で、医療関係予算も伸びが抑えられたため、先進国ではあり得ない低水準になってしまった。医療予算抑制による賃金抑制で、医師や看護師などが私立病院に流出し、投資不足で医療設備は老朽化。病院の衛生状態も悪くなり、院内感染事故も頻発した。その結果、GP医(かかりつけ医)の予...