グラッドストンとディズレーリ ビクトリア朝の宿命のライバル

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イギリスには21歳以上の男が602万人いるのに、84万人にしか選挙権がない。

 

これを不服として成人男子全員に選挙権を与える普通選挙の実施などを議会に要求したチャーティスト運動

 

農業家ウィリアム・ラヴェットの草案を元にロンドン労働者連盟がまとめた市民憲章(People's Charter)を、1839年、国民誓願として議会に提出した。

 

しかし2度にわたる提出も議会で否決され、1848年に3度目の誓願を行ったが、デモ行進を警察など当局に禁じられ、不完全燃焼のままチャーチスト運動は頓挫してしまった。

 

しかし選挙権拡大と労働者の保護は時代の要請であり、どのレベルまで選挙権を拡大するかについて、自由党のウィリアム・グラッドストンと、保守党のベンジャミン・ディズレーリが、これ以降、議論を戦わせることになる。

 

このグラッドストンとディズレーリは、元は同じ保守党出身で、マニフェストの元祖 ロバート・ピールの内閣(1834-)で活躍した。

 

ただしグラッドストンは若い頃からピールに重用されたのに対し、ディズレーリはピールに認めてもらえず、ピールが自由主義に傾くにつれてピールを批判し始めた。

 

そしてディズレーリは保守党内の保護貿易派をまとめて、ホイッグ党に同調して穀物法廃止に踏み切ったピールを批判。

 

ついには同じ党でありながらピール内閣を総辞職に追い込んでしまう。

 

ピール引退後、ピール派は保守党を離れ、独自に活動していたが、元々自由貿易指向だったホイッグ党と合流し自由党を結成する。

 

グラッドストンも自由党に参加し、これ以降、ディズレーリ対グラッドストンの対決が始まることになるが、大蔵大臣になるのはディズレーリの方が先だった。

 


グラッドストン、選挙法改正失敗で国民的ヒーローに

ピール派が離党した後に、保守党に残ったディズレーリ。

 

ディズレーリは、数少ないチャーティスト運動の理解者だったという。

 

急進的な市民憲章の受け入れには否定的だったが、イギリス議会がチャーティスト運動に、異常なまでの拒否反応を示すのを見て、これはおかしいと感じていたらしい。

 

ディズレーリはキリスト教徒(アングリカン)であったが、実はユダヤ人であり、なにかと発言が物議を醸すことが多く、党内でも浮きまくっていたようだ。

 

しかし実務能力に長けたピール派が大量離脱し、保守党内に仕事ができる議員がいなくなったため、ディズレーリはどんどん重要な仕事を任され、保守党政権担当時には大蔵大臣にまで出世した。

 

一方、グラッドストンも次第に頭角を現し、ピール派や自由党内閣では同じく大蔵大臣となった。

 

そして1859年、ピール派とホイッグ党が合併して自由党が誕生し、自由党政権の大蔵大臣となったグラッドストンが取り組んだのが、ディズレーリが失敗した選挙法改正だった。

 

グラッドストンは国民の選挙権拡大要望に応えるべく、一定以上の不動産所有者にのみに認めていた選挙権を、熟練工レベルまで拡大するために、間借り人まで認めようとした。

 

しかしこの選挙法改正案は、下院では何とか可決したモノの、同じ自由党からの造反により廃案になってしまった。

 

というのも隣国のフランスで普通選挙に踏み切った結果、ナポレオン3世の独裁を招いたという認識が広まっており、急激な選挙権拡大は危険視されていたのだ。

 

ところがこの改正案廃案によって、選挙権拡大運動は燃え上がり、抗議の大規模デモが行われたり、反対票を投じた議員邸を占拠したりという騒動が起こった。


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