ウェストミンスター条項とは

イングランド王ヘンリー3世の失政に不満を抱き反発したイングランド諸侯(バロン)たち。

 

シモン・ド・モンフォールを立ててヘンリー3世に王権の制限と国政の監視組織の設立を認めさせた。

 

これを「オックスフォード条項」と呼ぶ。

 

オックスフォード条項は翌年、強化されてウエストミンスター条項となる。

 

因みにウェストミンスターとはロンドンの地名で、イングランドの国会議事堂であるウエストミンスター宮殿や戴冠式などの王室行事が行われるウエストミンスター寺院がある。

 

ウエストミンスター寺院は墓地も兼ねていて、内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが埋葬されているという。

 

ニュートンだとかラザフォード、マクスウエルなどの物理学者や、冒険家のリヴィングストンや進化論のダーウィンも埋葬されている。

 

学校などでよく使われる始業チャイムは、イギリス国会議事堂にある時計台の鐘(ビッグ・ベン)が元なのだが、曲名は「ウェストミンスターの鐘」だ。

 

ウエストミンスターは、イングランドの政治と宗教の中心地であるから、名前だけでもしっかり覚えておくと良いかもね。

 



第二次バロン戦争勃発

イングランド王ヘンリー3世は失政を続けたため、オックスフォード条項・ウエストミンスター条項で国王の権限は制限され、貴族によって監視されるようになった。

 

ところが貴族たちの派閥争いに勝機を見いだしたヘンリー3世は数年後、この条項を一方的に破棄してまた何かやり始めた。

 

権力者というのはゴチャゴチャ言われるのが嫌いで常にフリーハンドを手に入れたいらしいね。

 

このためイングランドは穏健派や反モンフォール諸侯の王党派と、ロンドン市民やモンフォール支持諸侯の改革派に分かれて対立が始った。

 

そして仲裁に入ったフランス王ルイ9世がオックスフォード条項破棄を支持支持したため、とうとう第二次バロン戦争(シモン・ド・モンフォールの乱

 

1263年)が始った。

 

ロンドン市民を味方に付けたモンフォール派はすぐにロンドンを支配下に入れ、イングランドの西にあるウェールズ公国と協定を結び、王の軍をウエールズ諸侯との挟み撃ちによってルーイスに追い込んだ。

 

ルーイスで反乱軍は数的に不利であったが、モンフォール軍の旗を山ほど立てた囮によって王軍を引き込んだ隙に、ヘンリー3世やその弟、息子のエドワードを捕虜とする作戦を立て成功する。

 

そしてルーイスの戦いに完勝したモンフォールはロンドンに戻り各州から平民身分である騎士と都市の代表(市民)を招集して議会を開くことにした。

 

これを「ド・モンフォールの議会」と呼ぶ。

 

つまりこれがイギリス議会制民主主義の始まりとなるわけだ。

 

NEXT:ド・モンフォールの議会の欠点


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