政権が交代すると必ずもめる
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スコットランドの反乱を抑え、アイルランドも併合し、ジェームス1世が夢見たグレートブリテン統一をほんの数年で成し遂げたクロムウエル。
ところが内戦が終わってみると、議会と軍の間で新たな対立が生まれていた。
すなわち軍縮を求める議会と、それに応じられない軍の対立だ。
王政であれば、戦争で活躍した人間に貴族の位や名誉と、領土や報奨金を与えて国に返せばそれでよかった。
傭兵を使った戦争では、そうやって軍隊を解散して、また戦争が起こりそうになったら兵を集めれば良かった。
ところがクロムウエルは王政を廃止、貴族院も解散してしまったから、地位や名誉を与えて軍を解散するという手段がとれない。
しかも軍縮しようにも、議会派というのは共通した理念を持たない野合集団だった。
カトリックもいればピューリタンもいる、国教会からの分離派もおれば、極端な公平や平等を求める社会主義的な水平派(リベラー)もいた。
これではまたいつ派閥間闘争が起こるやも知れないから、大幅な軍縮は受け入れがたかった。
王党派が勝利していれば、政治体制に大きな変化はないから、その後もめるということは少なかったのだろうが、政権交代が起こると、その後の路線をどうするかでもめてしまうわけだ。
軍事政権から王政復古へ
議会と軍の板挟みになってしまったクロムウエルは、味方であったはずの残部議会(ランプ議会)をも解散し、軍が指名した議員による議会(ベアホーンズ議会)を招集する。
国王への即位を議会から求められることもあったが、クロムウェルは共和制を目指したいたのかそれは拒否し、自ら護国卿(ごこくきょう)と名乗り、護国卿政という体制を作り始める。
ところが統治章典という成文憲法を作り、共和政のシステムを整えようとするが、軌道に乗らず、味方を減らすことになっていく。
軍事や防衛・通商方面では圧倒的な功績を残したクロムウエルだったが、イギリスに共和政を定着させることができず、そのまま1658年に病死してしまう。
その後クロムウエルの三男が護国卿となるが、各方面からの支持を得られず辞任してしまい、イングランドは混乱状態に陥る。
これを千載一遇のチャンスと見たチャールズ2世はブレダ宣言を出して敵方に対しても処罰をしないと太っ腹なところをアピールし出す。
混乱を極めたイングランド議会であったが、スコットランド軍が侵攻してきたこともあって、急遽チャールズ2世の提案を受け入れる決議を行い、1660年、彼を王位に就けることにする。
こうして共和政イギリスはたった11年で破綻し、イングランドはまた王政にもどる。
これがいわゆる王政復古と言うヤツである。