希代の政治家 サッチャー誕生
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1947年にオックスフォード大学を卒業し、アイスクリームをなめらかにする研究に携わっていたマーガレット・ロバーツ。
保守党の地域組織に加入してから、大きく運命が動き出す。
マーガレットは大学で化学を修める一方で、ハイエクの思想や経済学に触発され、オックスフォード大学の保守党協会に参加し議長を務めるなどの活動もしていたのだ。
そのため大卒保守党協会の代表として、保守党の地域組織に参加したわけだ。
そしてオックスフォード時代の友人が、ロンドンの東に隣接するケント州ダートフォードの保守党協会の議長の友人だった縁で、彼女は保守党の候補者選出会に呼ばれることになった。
イギリスの議員候補者選びは、何人かの候補者候補をリストアップし、その候補者候補を並べて演説させたり討論させたりして、地域の委員が候補者を選択する。
そこでマーガレットは保守党公認の候補者に混じって、推薦の形で候補者候補面接を受けたのだが、強い印象を残して保守党の候補者となり、1950年の総選挙に出馬することになった。
マーガレットは労働党勢力の強いダートフォードで、50年・51年の総選挙に立候補し両方とも落選したが、ダートフォード選挙区では最年少の候補であり、しかも唯一の女性候補であったためマスコミの注目を集め、労働党候補の票をかなり削ることに成功した。
1951年には、立候補パーティで出会ったデニスと結婚し、デニスの支援を受けて法律を勉強し、53年には法廷弁護士の資格を取り、同時に双子の母親となった。
子育てもあって、55年の総選挙では立候補できなかったが、59年には保守党優勢のフィンチリー選挙区から立候補して初当選を果たす。
希代の政治家、マーガレット・サッチャーの政治家としてのキャリアがスタートした。
ミルク泥棒 サッチャー
イギリスでは議員のことをMPと呼ぶ。
MPとはMember of Parliamentの略で、英国議会のメンバーという意味だ。
1959年の総選挙で、MPとなったマーガレット・サッチャー。
1961年にはマクミラン保守党内閣で、『年金と国民保険制度省』の政務次官として議会の前列に座った。
66年には保守党の影の内閣の大蔵省チームに属し、スポークス・ウーマンとして活躍した。
サッチャーは、労働党政権の高税金政策を、「社会主義への道ではなく、共産主義への道である」と批判し、税金を下げることが労働意欲につながると主張した。
1970年には、ヒース保守党内閣で教育科学大臣に就任し、無駄の多い教育予算の削減に取り組んだ。
当時のイギリスの学校では、7歳から11歳の児童に、国費でミルクを無償配布していたのだが、この制度を大幅に縮小した。
サッチャーは、目標栄養摂取量に達しておれば良いと考え、ミルク配布を最小限に留めても殆ど影響がないと思っていたのだが、労働党やマスコミはこの決定に猛反発し、サッチャーを「ミルク泥棒」と非難した。
サッチャーはこの時、殆ど価値を失った少数利益であっても、それを侵すと多数からの反発を招いてしまうと言う教訓を学んだという。
一方、地方の教育当局に対して、入試のある古いカリキュラムのグラマースクールから、入試のない総合中等学校への転換を促し、総合学校の生徒比率を32%から62%に引き上げることに成功した。
当時のイギリスにはまだ、義務教育の統一カリキュラムもなく、学校教育を評価する制度もなく、それぞれの学校や地方当局が勝手に教育を行っていたのだ。