霧の都ロンドンと大気汚染
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農業革命と産業革命によって、爆発的人口増加が起こったイギリス。
ロンドンの人口は1800年代には100万人を超え、1850年には230万人にも達した。
急増した人口のほとんどが労働者で、ロンドン周辺生まれの者や地方から流れ込んできた者で、押し合いへし合いごった返していた。
世界最古の公共鉄道ネットワークである、ロンドン地下鉄(The London Underground:the Tube)も、1863年に開通して、工場へ通う労働者たちを運んだ。
「ロンドンには全てモノがある」と言われ、膨大な人口流入が200年に渡って続いていたのだ。
そして著しく高くなった人口密度と、環境悪化によって、伝染病も流行した。
たとえば1848年と1866年にはコレラが流行し、それぞれ1万4千人と6千人が死亡した。
またロンドンの街には工場から出る煙や石炭が原因で、喘息や心臓病を患う人も多かった。
冬は暖房に使われる石炭のせいで常に薄いモヤがかかっており、「霧の都ロンドン」と呼ばれたくらいだ。
石炭は工場の蒸気機関の燃料でもあり、労働者が煮炊きや暖房に使う燃料であったため、工業化と人口増加でどんどん消費量が増え、石炭を燃やした排ガスや煤塵(スス)がロンドンを覆っていたのだ。
この石炭による大気汚染が解決に向かったのは、なんと百年後の1960年代だった。
というのも1952年12月ににロンドンで大スモッグが発生し、数週間で1万2千人もの人が死亡するという大事件が起こったのだ。
これを「ロンドンスモッグ事件(Great Smog of 1952)」と呼ぶが、亜硫酸ガスの大量発生で冷たい硫酸の酸性雨がロンドンに降り注ぎ、喘息や心臓病などの持病を持っていた人を中心に、死者が急増した。
これが契機になって大気浄化法が制定され、ようやくロンドンの大気汚染は改善に向かいだしたのだ。
ロバート・オウエンと博愛主義的工場
霧の都と呼ばれたロンドンでは、ロンドンスモッグ事件が発生する以前の1850年から1950年までの100年間に、10回ほどの大スモッグが発生していたという。
しかし石炭は19世紀当時、唯一の燃料であり暖房に欠かせないモノだったから、ある意味、必要悪として捉えられていたのだろう。
一方、労働者の置かれた劣悪な労働環境については、異を唱える者も現れ始めた。
当時は、女性や子供の労働や、12時間以上の労働も規制されておらず、低所得者家庭を中心に幼い幼児までもが、労働力として動員されていたのだが、それを批判して改善しようと言う経営者も現れたのだ。
その1人がウエールズ出身の実業家 ロバート・オウエンで、オウエンは幼児の就労禁止と幼児教育の必要性を訴えた。
オウエンは「理想社会を作り出すためには、人類の無知を追放しなくてはならない。
そのためには、教育が必要である。
人間は環境によって変わる」と主張し、自らの工場では少年の酷使をせず、教育施設を併設して幼児から教育を施した。
また法律による未成年の就労規制の実現に尽力した。
オウエンらの努力もあり1833年には工場法が成立し、
- 9歳未満の児童の労働禁止
- 9歳~18歳未満の労働時間 週69時間以内
- 監督をする工場監督官の配置の義務化
そしてその後も女性や子供の労働を中心に様々な制限が加えられて、労働者の労働環境は徐々に改善していくことになる。
因みにオウエンらが学校や住宅や福利施設を併設した工場は、スコットランドのニュー・ラナークにあり、世界文化遺産になっている。