ド・モンフォールの議会の欠点

ド・モンフォールの議会の欠点

シモン・ド・モンフォールの乱

第二次バロン戦争・ルーイスの戦いに完勝し、国王のヘンリー3世や息子のエドワードを捕らえたシモン・ド・モンフォール。

 

ロンドンに戻ると各州から平民身分である騎士と都市の代表(市民)を招集して議会を開くことにした。

 

英国議会はそれまで、貴族たちの集まりであったのだが、そこへ貴族以外の階層から代表者を集めた新しい英国議会を開くことにした。

 

これを「ド・モンフォールの議会」と呼ぶがここからイギリス議会制民主主義が始まっていくわけだね。

 

ド・モンフォールの議会では、様々な改革案が提出されたのだが、急進的な内容だったため、だんだん貴族たちが離反し始めた。

 

貴族だけで行っていた議会に、貴族以外の平民騎士や市民(ジェントリ)を入れれば、当然ながら貴族の主張は通りにくくなるわけで、だんだん貴族のモンフォールに対する目が変わってきた。

 

そうしてモンフォールのやり方に不満を抱き始めたイングランド諸侯たちは、ヘンリー3世の息子のエドワードが監禁から逃れると、そのエドワードを立てて王党派を形成してモンフォールに対峙し始めた。

 

そうしてイーヴシャムの戦いおいてモンフォールを戦死させ、ヘンリー3世は王権を回復することとなった。

 

第二次バロン戦争が「シモン・ド・モンフォールの乱」と呼ばれるのは、最終的に王党派が勝利してヘンリー3世が王位に戻ったからである。

 



説得力がなかったシモン・ド・モンフォールの議会

シモン・ド・モンフォールによって英国議会に初めて平民騎士や市民(ジェントリ)の代表が招集された。

 

これは確かに画期的な事であったのだが、問題はその招集バランスが、恣意的だったことにあった。

 

※恣意的(しいてき)…自分勝手で気ままな、根拠のないつまりモンフォールは急進的な改革案を通すために、自分に協力してくれた階層から代表を集めたわけだ。

 

だがしかしモンフォールの都合良く代表を集めたので、説得力のない議会ができあがってしまった。

 

これでは「モンフォールは王位を狙っている」と言われても仕方がない。

 

それでイングランド諸侯はこぞってヘンリー3世の息子エドワードを担ぐことにした。

 

そしてエドワードの軍がモンフォールを「討伐」し、ヘンリー3世が死去すると、諸侯はエドワードを推挙して王位に就け、エドワード1世が誕生する。

 

エドワード1世は保守派と改革派の融和を図り、様々な改革を進めて国内を安定させた。

 

しかしエドワード1世は敵に対しては容赦がなく、モンフォール軍に残虐な処刑をして見せしめにしたのを初め、隣国であったウエールズやスコットランドが屈服しないとみると、武力によって制圧して残虐な処刑方法で支配者を処刑した。

 

そんなエドワード1世であったが、フランスとの戦いのための戦費調達のため、聖職者や貴族、州や都市の代表を実状に合わせて招集し、模範議会と呼ばれる英国議会を開催する。

 

つまりシモン・ド・モンフォールによって、高級聖職者と貴族のみだった議会に騎士や市民が招集されるようになり、エドワード1世によって国を代表する議会が意識されるようになったわけだ。

 

NEXT:マグナカルタから庶民院の誕生まで


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