持ってる女、サッチャー、保守党の党首となる
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1974年、保守党のヒース首相は、暴徒化する労働組合を抑えられず、「いったい誰がこの国の統治者なのか」と総選挙に打って出た。
しかし過半数の議席を獲得できず自由党との連立交渉にも失敗し、労働党に政権を譲ることとなった。
ウィルソン労働党は公約であった年金の増額や「社会契約」でストを収めて再選挙を行い、わずかながら過半数を確保した。
そこで保守党は解散総選挙が遠のいたと判断し、5年後の政権奪還を目ざして、翌75年2月に党首選挙を行うことになった。
現党首で保守本流を自認するヒースに対し、傍流であった自由と経済を重視する右派は、マーガレットをヒースの対抗馬として担ぎ出した。
教育科学大臣しか経験がないマーガレットであったが、経験豊富なライバル達を次々打ち破って予備選を勝ち上がり、最後には「新しい出発」を約束して、現党首のヒースも打ち破ってしまった。
そうして初の女性保守党党首として、政権奪回を目指す保守党を率いることとなった。
野党第一党の党首となったマーガレットは、ハイエクの弟子筋にあたる学者達と定期的にランチミーティングを行って、新しい経済政策を練り上げる一方で、政権を担当する労働党に容赦ない批判を浴びせた。
また東西融和を目ざしヨーロッパの平和を求めたヘルシンキ宣言の調印すらも非難し、ソ連の国防省機関誌から「鉄の女」とあだ名されたことを利用し、着々と「鉄の女サッチャー」というイメージ作りを進めていった。
鉄の女サッチャー、政権を奪回する
ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)とは、アメリカを初めとする西側諸国と、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)など東側諸国などの35カ国が、平和と自由と人権尊重と、相互不可侵で合意した宣言だ。
しかしマーガレットは、ソビエトがまだ共産主義による世界支配を諦めておらず、移ろいやすい国民の声を気にもとめず、国民に豊かな暮らしを提供するよりも、国民に銃を取らせて戦わせようとしているとして西側諸国のリーダーでただ1人、ソビエトと社会主義の危険性を主張し続けた。
ソ連の国防省機関誌は、そんな頑ななマーガレットのことを「鉄の女」と呼んで非難したが、逆にそれが彼女の「強さ」を象徴するニックネームとなった。
マスコミも本人もこのニックネームを気にいり、鉄の女サッチャーだからこそ、没落するイギリスを救えるのではないかという期待をイギリス国民に抱かせた。
その一方でマーガレットは、ハイエクの教え子が主催する、Institute of Economic Affairs (IEA)のメンバーと定期的に会食してイギリス再興のためのプランを練った。
そして1978年夏、キャラハン労働党内閣が、まだ総選挙はしないと宣言したことを「臆病者」とののしり、「不満の冬」で労組がゼネストを行っている最中に、労働組合の活動を大幅に制限する法案の提出をブチ上げた。
労働組合の身勝手なストによって、寒さと怒りに震えていたイギリス国民はサッチャー保守党を支持し、79年5月の総選挙では保守党が地滑り的大勝利を収めた。
ここにイギリス憲政史上初の、女性首相が誕生した。