ギリシャとローマ、一体何が違ったのか?
更新日:
隣国の賢者を王位に就けたり、敵国の貴族や市民をも取り込んで国力を増していった古代ローマ王国。
元々元老院や民会の発言権が強かったが紀元前5世紀にはもう、独裁的な行動を取った国王を追放し、王政を廃止して共和政に移行していた。
そしてさらに身分闘争・階級闘争を経てだんだん貴族政とデモクラシーが補完し合う混合政体というものを作り上げていく。
混合政体というのは、貴族政と民主制が共存する政治体制で、貴族と平民が補完し合って統治する体制と言うことだ。
ギリシャのアテナイでは、身分闘争・階級闘争が国力を弱体化させた原因だと考えられているが、ローマでは逆に、身分闘争や階級闘争を経て国力が増進し、版図(領土や勢力)とをドンドン拡げていくと言うことになる。
一体ギリシャとローマでは何が違ったのか?いろいろ比較してみる。
まずギリシャは都市国家の集まりであり、ローマは一つの国であった。
ギリシャは大国ペルシャと戦うときは一致団結したが、それ以外の時はずっと都市国家同士で覇権争いをしていた。
そして各ポリスがマケドニアの支配下に入ったりローマの支配下に入ったりしていて結局統一さずに終わる。
合従連衡をくりかえし、全ギリシャとしての意志を決定するシステムが最後まで出来なかったということが大きいだろう。
トリブス民会が混合政体を作り上げた
ローマとギリシャ、何が違ったのか。
一つにはギリシャが最後まで統一意志決定システムを作れなかったことだろう。
諸ポリス間で覇権争いを繰り返し、その結果マケドニアの支配下に入ったり、ローマの支配下に入って消滅してしまう。
ギリシャ人は自由人であることを重要視したので、自分が影響力を及ぼせないような民会以上の政治システムを望まなかったのかも知れない。
一方、共和政ローマでは軍制別のケントゥリア民会(100人会・兵民会)から徐々にトリブス民会(区域・地域ごとの民会)へと民会のあり方が変わっていった。
トリブス民会というのは地域ごとに意志決定を行うと言うもので、パトリキ(貴族)とプレブス(平民)が参加して議論を行い、その結論を集約するというシステムだ。
共和政ローマの戦いは陸戦が主であり、主戦力は平民階層の重装歩兵たちであったから、彼らの言い分を無視して戦争することは不可能だったらしい。
なにせ北方から強敵ガリア人(ケルト人の一派)たちが、ミラノまで南下してきていたし譲れるところは譲って戦わなければらなかったからである。
そのため様々な形でパトリキとプレブスの身分闘争が始まり、プレブスはジワジワと貴族が独占していた様々な権利を削っていくことになる。
ローマの民主主義は貴族政を否定せずにこうして平民の権利を少しずつ拡大していったわけだ。
この辺、イギリスの民主主義の歴史に似ているね。