大国をデモクラシーで維持する難しさ

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共和政から帝政へ移行したローマ。

 

あれほど君主制を嫌っていたローマが、なんと皇帝を君主に据えることになってしまう。

 

その背景には、拡大する領土に対して、民主的な統治システムが作れなかったことがあるだろう。

 

喜んでローマの同盟都市になった国ならまだしも、戦争で討ち滅ぼした国では反ローマ闘争が繰り広げられた。

 

そんな国にデモクラシーを持ち込んだら、逆に反抗勢力が勢いづかせることになってしまう。

 

特にローマ本国から遠く離れた属州では、激しい搾取が行われたから、そこで広範な自治でも認めようとしたら、ローマに対して結束して当たりかねない。

 

ローマの強さは、ローマを支える市民たちの高い市民精神(シチズン・シップ)に根拠があって、さらに新しい肥沃な土地を手に入れることが出来るという強いインセンティブがあってこその話である。

 

ローマ市民が自前で兵装を整えて戦いに出れたのも、戦争で獲得した領土が自作農・農業経営者であるローマ市民にも分け与えられたからこその話である。

 

しかし属州の住民には、そういうインセンティブがないから、危なくて武器など持たせられない。

 

つまりローマの共和政では小さな都市国家ローマを民主的に統治する事は出来たが、地中海全域を統治することは出来なかったと言うことだろう。

 

そしてその代わりに登場したのがインペリウムと呼ばれる絶対的命令権であり、インペリウムを行使するのが皇帝(エンペラー)なのである。

 


インペリウムとは全面的命令権

共和政が崩壊し、インペリウムを行使する皇帝による統治へ移行したローマ。

 

インペリウムとは何かというと、全面的な命令権を意味する。

 

全軍隊の統帥権を意味することもあるし、条約締結などの全権大使の仕事も担う。

 

共和政ローマでは、非常時における官職として、独裁官(ディクタトル)という官職を置いていて、国家の非常時に法律や元老院などの承認を得ずに、国家の全権を掌握して危機に当たることになっていた。

 

ただ独裁官はあくまでも非常時の官職であり、原則として任期は半年から1年であった。

 

それ以上、独裁官に留まることは許されず、そう言う動きを見せた独裁官は暗殺された。

 

ローマでは独裁者が現れようとすると、暗殺によって独裁者を引きずり降ろすのが慣例だったのだ。

 

「ブルータス、おまえもか」というカエサルの言葉は、終身独裁官を名乗ったカエサルが貴族仲間であったブルートゥスに暗殺されたときに発したという言葉だが、権力の一極集中に対する極度の嫌悪感がローマにあったと言うことだろう。

 

ところがその後のローマでは、共和政の体裁を保ちながら、終身独裁官と殆ど変わらない皇帝が支配する国に変貌していくことになる。

 

こうして古代地中海に誕生したデモクラシーは、ローマ帝国の繁栄の裏で消えていったわけである。

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