イギリス下院議員選挙 有権者数と労働党得票率の推移
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第一次世界大戦で人手が必要となり、男は戦場へ、女は工場へと駆り出された。
ドイツの潜水艦攻撃によって、壊滅的な被害を被ったイギリスは、国を挙げての総力戦で国土を防衛する。
戦争で必要なのは国民の団結であり、戦争に戦い抜くための国民の同意である。
そのためにイギリス議会は1918年に、貴族や犯罪者を除く21歳以上の男子全員に選挙権を認め、さらに一部の女子の選挙権も認めることになる。
これによって有権者数は約770万人から、3倍にもなる約2,100万人まで増えた。
それに伴って労働党の得票率も、6.8%から20.8%へと3倍にシェアを増やした。
また1928年の選挙法改正では、21歳以上の男女に平等に選挙権を認め、有権者数は2,800万人を越えた。
翌年の選挙で労働党は37.1%の得票を集め、615議席中の287議席を獲得して、ついに第一党となった。
第二次世界大戦が終結した1945年以降、40%台の高得票率を保ち、何度も政権の座に就く。
こうして労働者階級の増大に伴って、得票率を伸ばしてきた労働党であったが、1970年から様相が一変する。
1970年以前は有権者数の増加に伴い、労働党の得票率も上昇し続けてきたが、1970年を境にして、有権者が増えているのにもかかわらず、労働党の得票率がどんどん下がっていくのだ。
1900年にたった2議席からスタートした労働党は、なぜ国民の支持を集めて政権まで獲得できたのに、国民から見放されていったのだろうか。
そこには社会主義の矛盾と、新しい階級の登場があった。
イギリス下院議員選挙 有権者数と労働党得票率の推移
クレメント・アトリー 労働党単独安定政権スタート
1945年第二次世界大戦が終結し、保守党と労働党の挙国一致内閣が解消、7月に下院議員選挙が行われることになった。
戦争中、指揮していたのは、保守党のウインストン・チャーチルであったが、厭戦感からか保守党の得票率は伸びず、得票率36.2%で192議席に留まった。
一方、労働党は結党以来、最高得票率48%を記録し、640議席中393議席を獲得して政権を獲得した。
新しい首相には労働党のクレメント・アトリーが就任し、初代党首のラムゼイ・マクドナルド以来、2人目の労働党首相となった。
以前のマクドナルド内閣は自由党との連立だったり、過半数の議席を持たない政権であったため、マニフェストで訴えた政権公約を充分実行できなかった。
しかしアトリー内閣は初の労働党単独安定政権であり、労働党の真価が問われる5年間となる。
アトリーはまず、石炭、鉄道、通信など基幹産業を国有化した。
これは戦争のためにすでに国有化同然に扱われていたのだが、国有化してイギリス復興を優先させる狙いがあった。
1948年には、国家健康保険制度を作り、医師を公務員あつかいすることで、医療費を無料化した。
また公営住宅を100万戸以上建設し、義務教育も1年延長、奨学金制度を作り、労働者階級の子弟でも高等教育が受けられるように図った。
老人福祉も拡大し、国会議員の歳費も引き上げた。
議員報酬を引き上げたことによって、議員は組合などからの資金援助なしに活動できるようになった。
さらに国王ジョージ6世の反対を押し切って、すでに赤字経営になっていた大英帝国の植民地を整理し、インドとパキスタンを分離して独立させた。