マルクス主義の台頭と、加入戦術のはじまり

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戸主選挙権制が導入され、労働者の一部も選挙権を持つようになった19世紀後半のイギリス。

 

保守党のユダヤ人首相ディズレーリは、労働者階級を取り込もうと、様々な労働者優遇政策を行ったが、労働運動家の多くは自由党に参加した。

 

保守党には、地主や貴族などの関連議員が多く、敵対勢力だと見なされていたということらしい。

 

一方、1880年代からは、地主階級による支配に反対して、土地公有化や企業の公有化が叫ばれるようになった。

 

マルクス主義を掲げる社会民主連盟が誕生し、多くの著名人がマルクスが著した資本論などを読み始めたのだ。

 

マルクス主義とは、ものすごく簡単に言うと

「生産に関わる土地や機械などの資本を国有化し、労働者を代表する有能な人間が運営すれば世の中がとんでもなく良くなる」
ということで、イギリス社会を牛耳っている貴族や地主、そして新興成金の資本家などの行動に腹を立てていた知識人が、こぞってマルクス思想に、はまっていった。

 

ところが、実業家であったロバート・オウエンですら、なかなか上手く実現できなかった社会主義の理想である。

 

それを生身の人間相手の商売や経営などやったことがないカール・マルクスがつくった理屈を、経営の難しさを実感していない知識人たちが議論するわけだから、議論は常に平行線で、分裂や脱退が相次いだ。

 

モダンデザインの父と呼ばれるウィリアム・モリスも、社会民主連盟に参加したが、しばらくすると脱退して、マルクスの娘とともに、自分の社会主義協会を結成した。

 

また社会民主連盟の創設者であるヘンリー・ハインドマン自身も、1900年に社会民主連盟が労働党に参加する際に脱退し、国家社会主義党を結成して独自路線を歩んだ。

 

マルクス主義団体はこうして内部対立によりどんどん分裂し、決してまとまることがなかった。

 

そのため革命による社会変革を目指す者たちは次第に、社会的に認知された労働党や有力労組に潜入して、労働党や有力労組を牛耳ることに力を入れ始める。

 

これが後に労働党を引っかき回し、存続の危機に追いやる『共産勢力の加入戦術』の始まりである。

 


フェビアン協会と社会改良主義

1880年代には、マルクス主義の他にも別の思想を持つ社会主義グループが誕生した。

 

それが「フェビアン協会」である。

 

フェビアン協会とは、一歩ずつ社会変革を目指す堅実な知識人の知識人の集まりだ。

 

少しずつ社会を改良していくので、社会改良主義とも呼ばれる。

 

劇作家でノーベル文学賞を受賞したバーナード・ショーや、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)を創設した政治家のシドニー・ウェッブなど、フェビアン協会にはそうそうたるメンバーが参加した。

 

『宇宙戦争』や『タイム・マシン』などを描いたSFの父 HGウエルズもフェビアン協会に参加した。

 

因みにロンドン・スクール・オブ・エコノミクスというのは、ロンドン大学を構成する大学の一つで、社会科学を専門とする超有名な研究施設だ。

 

ただしLSEは、社会主義のための研究所ではなく、不偏不党をモットーとした大学であり、自由な大学である。

 

1974年にノーベル経済学賞を受賞した自由主義者ハイエクも、LSEで18年間に渡り教授を務め、その間に「隷属への道」という共産主義や社会主義やナチズムが同根であるという本を書いてベストセラーになっている。

 

また、2012年現在でノーベル賞学者を17人も輩出しており、また大統領や首相、国家元首も30人以上も輩出している「経済学・社会科学のトップ大学」でもあり、数多くの新しい社会科学分野を切り開いてきた大学だ。

 

さて、フェビアン協会は社会民主主義の総本山であり、後に首相となったラムゼイ・マクドナルド、クレメント・アトリー、アンソニー・クロスランド、リチャード・クロスマン、トニー・ベン、ハロルド・ウィルソン、トニー・ブレア、ゴードン・ブラウンなどを輩出することになる。

 

このフェビアン協会と、マルクス主義系の社会民主連盟、非熟練労働者組織の独立労働党、職能組合連合TUCから代表者がでて、1900年に労働代表委員会が結成され、1906年にはイギリス労働党が誕生した


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