いったい誰がこの国の統治者なのか?
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1970年代前半のイギリスでは、左傾化した労働組合がますます過激化し、労働党さえも組合の意のままに動かそうと1973年綱領を採択した。
その内容は一言で言うと、「イギリスの金目のモノは全部国有化し、労働組合が支配できるようにしてしまえ」と言うような内容であった。
左傾化した労働活動家たちは、明らかに国民搾取主体化しており、国民の生活を人質にして私腹を肥やす腹だった。
労働党左派出身のウィルソン党首も、さすがにこれには異を唱え反対したが、労働党を支える6大労組のうち4つが左傾化しておりもはやウィルソンには為す術が無くなっていた。
そして1973年に石油ショックが起こり、エネルギー価格が急騰し始めた。
20%ものインフレが発生し、炭坑労組はいつものごとく、賃上げを要求して長期ストに打って出た。
この炭坑の長期ストによってイギリス経済は麻痺状態になり、エネルギー不足で工場は週3日しか稼働できなくなった。
以前も書いたが、いち早く産業革命を成し遂げたイギリスは、ほとんどのエネルギーを石炭に依存する社会になっており、炭坑労組がストを行うと、直ちにエネルギー価格が高騰し、ストが長引けば、エネルギー不足に陥ったのだ。
エネルギー不足で工場が週3日しか動かなければ、物資も不足するし、工場労働者も仕事が無くなって収入も減る。
そうなると当然お金の流れが悪くなって不況になるから、政権を担当していた保守党の責任が問われ始めた。
そこでヒース首相はもう打つ手無しと見て、「いったい誰がこの国の統治者なのか?」と訴え、安定多数を目指して解散総選挙に打って出ることにした。
社会契約による賃上げ、全く機能せず
炭坑ストに打つ手なしとみた保守党ヒースは、いったい誰がこの国の統治者なのか?と、解散総選挙に打って出た。
年々凶暴化する労働組合とインフレを退治できるのは保守党か労働党か。
労働組合の暴走とインフレに苦しむイギリスの有権者たちは大いに迷った。
その結果、労働党301議席、保守党297議席、自由党14議席となり、労働党も保守党も過半数に届かなかった。
そして保守党と自由党の連立交渉がまとまらなかったため、第一党であった労働党に組閣の命が下り、第二次ウィルソン労働党内閣がスタートした。
ウィルソン労働党はここですぐさま炭坑労組と交渉に入り、23%の賃上げ率でストを終結させた。
また「社会契約」なる契約を労組と結ぶことによって、インフレを抑制するという方策を発表し、安定多数を獲得するために解散総選挙に打って出た。
労働党がとりあえずストを終結したことが評価され、何とか過半数の319議席を獲得し、政権を安定化させた。
しかし労働党内の左派と右派の対立は激しくなり、ポンド安によるIMF融資問題が発生し、イギリスの経済は「英国病」という病に冒されていると表されるようになった。
そして国民的人気を誇っていた労働党党首ウィルソンは、1976年3月、突然、首相を辞任してしまった。
ウィルソンはアルツハイマー病に冒され、首相という激務にもはや耐えられなくなってしまっていたのだ。
イギリス有権者数と、3大政党得票率の推移
