君臨すれども統治はせず
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スペイン継承戦争で一定の成果を上げ、フランスのルイ14世の野望を阻止した女王アン。
ところが彼女の子供はことごとく夭折、つまり成人せぬまま亡くなってしまい、跡継ぎが育たなかった。
そこで女王アンの死後、イギリス議会が国王として選んだのは、ジェームス1世のひ孫でドイツ連邦の一国、ハノーファー公国選帝候のゲオルク・ルートヴィヒ(ゲオルク1世)であった。
ハノーファー公国(王国)は北部ドイツの国で、1866年の普墺戦争によるドイツ統一でプロイセン合流まで王国として存在した国だ。
また選帝候というのはドイツ王(神聖ローマ帝国皇帝)の選挙権を持つ者ということで、由緒正しき王家ということらしい。
ゲオルク・ルートヴィヒは女王アンの夫の従兄弟でもあったのだが、グレートブリテン王に即位し、ジョージ1世と名乗った。
しかし即位時には、すでに50を超えた高齢であったし、イギリスを留守にすることが多く、殆どハノーファーへ戻っていた。
ハノーファー国はバルト海の覇権争いである大北方戦争に参加してスエーデン(バルト帝国)と戦っている最中であったのだ。
また英語があまり話せないもんだから、イギリスのことはもう内閣に丸投げで、政治を任せっぱなしということになった。
第一大蔵卿・ウォルポール登場。
女王アンの跡を継いでイギリスとアイルランドの王位に就いたジョージ1世。
しかし君主を務めるハノーファー国は大北方戦争のさなかであったため、殆どイギリスに滞在することなく、イギリスの政治は内閣に丸投げであった。
ここで政権を担当することになったのが、王室の財政を預かる第一大蔵卿(おおくらきょう)のロバート・ウォルポールであった。
ウォルポールはイギリス東部のノーフォーク出身のジェントリ(小地主)であり、ケンブリッジ大学に学んだあと、ホイッグ党から出馬し下院議員を務めていた。
財政に明るく、バブル経済の語源ともなった南海泡沫事件の処理で活躍したため、国王ジョージ1世の信頼を得て、第一大蔵卿となった。
大蔵卿というのは、もともと王室の私的財政を預かる部署であったが、時代を経るに連れて国家財政をも管理するようになった。
第一大蔵卿というのは、その大蔵卿委員会のトップという意味であったが、それがすなわち内閣の代表(首班)としての地位となり、財務大臣は第二大蔵卿が担当することとなっていく。
これがつまり首相・内閣総理大臣の始まりであり、これ以降、議院内閣制の仕組みがどんどん整備されていくことになる。