グラッドストン、イギリスの近代化に取り組む
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1868年の第二次選挙法改正(戸主選挙権)で、間借り人の労働者にまで選挙権を与えた保守党のユダヤ人首相ディズレーリ。
自由党を分裂させるために、自由党急進派の要望をとりいれて、様々な制限をどんどん無くしていった。
そうするとなんとグラッドストンの改正案よりも、多くの労働者に選挙権を与えることになった。
ディズレーリの当初の法律案では、14万人しか有権者が増えなかったのだが、妥協に妥協を重ねた結果、なんと100万人も有権者が増えることになった。
イギリスの有権者はこれによって100万人から200万人へと倍増したのだが、ディズレーリは保守党有利に選挙の区割りも定めたから、次の選挙では楽に勝てるものだと踏んでいた。
ところが選挙改革に取り組んだ手柄は、すでに自由党のグラッドストンのモノであり、ディズレーリが苦心して選挙権を与えた選挙民からはそっぽを向かれる始末。
新制度で行われた総選挙では、グラッドストン人気もあって、自由党が大差で勝利。
ディズレーリは選挙で敗北し、議会が開かれる前に退陣する初めての首相となった。
一方、ビクトリア女王からグラッドストンに組閣の大命が下り、グラッドストンはイギリス首相として腕をふるうことになった。
グラッドストンは首相になるや否や、アイルランドの国教会や農地改革、軍隊・官僚組織の改革など、様々な改革に着手した。
軍隊や官僚組織には貴族の子弟が多く、縁故採用が多かった故に、お世辞にも能率的組織とは言えなかった。
そこで軍隊や省庁の採用には試験制度を設けて、有能な高学歴の人材を集めるようにした。
また軍では階級を金で売り買いするのを禁止し、貴族の子弟が金で買った地位で、ふんぞり返るような仕組みを改めた。
義務教育の導入 スト権の確立、秘密投票制の導入。
グラッドストンは、教育改革にも取り組んだ。
当時のイギリスにはまだ義務教育制度が無く、小学校も出ていない国民が4割もいた。
また小学校しか出ていない国民も多く、プロイセンを初めとするドイツ諸国などと比べると、国民への初等教育水準の低さは際だっていた。
そこでグラッドストンは義務教育制度の導入を目指したのだが、既に存在する私立学校の多くが宗教学校で、宗教教育をどう扱うかで議論が分かれ、義務教育を一本化することはできなかった。
ただし学校のない地域には公立学校を作ることが決まり、小学校制度の充実が図られた。
また1871年には、労働組合法を制定し、労働者にストライキをする権利を与えた。
ただしグラッドストンのスト権はスト破りに対して寛容だったので、実際にはストをかなり制限するものとなっていた。
だから現代のような労働者有利のスト権を導入したのは、このあとのディズレーリ政権からだと書いてある本もある。
一方、選挙の投票も公開式から秘密投票制に変更した。
当時の選挙権は貴族や紳士が持つ特権であり、特権を持った者はハッキリと意思表示すべきとされ、公衆の面前で堂々と口頭で誰を支持するか言わねばならなかった。
しかし選挙権が熟練工レベルにまで拡大したことで、公開投票では意志に反した投票を行う可能性が大きくなり、公正な投票が行われないと考えられたのだ。
選挙が秘密投票制になった結果、それまで圧力に屈していたアイルランド国民党が躍進し、イギリス議会は、保守党、自民党、そしてアイルランド国民党で議席を分け合うようになった。