労働組合に支配される労働党
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サッチャーに敗北した労働党。
その原因は労働組合の言い分をずっと無視してきた労働党幹部にあると、労働組合側は考えた。
労働党の党首はそれまでずっと、労働党議員の互選で選ばれていたため、傘下の労働組合が左傾化しても、党首は右派の現実主義者が選ばれていた。
戦後初の左派党首マイケル・フットにしても、左右の調整役としてのベテラン起用であり、バリバリの左派党首というわけでもなかった。
しかし左傾化した労働組合にとって、労働党幹部は労働組合の主張を表面上受け入れるが、政権を取ったらいつのまにかその主張は引っ込めて、逆の路線に変わってしまう面従腹背な人間に見えた。
そしてサッチャー保守党に破れた1979年の総選挙も、公務員ストによってイギリスが麻痺した「不満の冬」のせいではなく、労働組合の要求に応えなかった労働党の右派のせいだと考えた。
だから81年の党大会では党首選改革を議決し、党首は議員票と労働組合票と地方組織票によって選ぶこととした。
比率も30:40:30と、議員票をわずか3割に縮小し、労働組合や地方組織の力で党首を選べるようにした。
これに大反対だった右派議員の大物議員4人は、労働党はもはや左傾化した労働組合に乗っ取られたと見て脱退して新党(社会民主党)を立ち上げた。
そうして第3党である自由党と連携して次の選挙に臨むことにした。
ただし社会民主党として何を目指すべきなのかで意見が一致せず、労働党内の右派議員も、社会民主党に合流すべきか、それとも党内に残るべきか悩むこととなった。
一方、社会民主党という受け皿ができたおかげで、労働党内の左派のあいだでも変化が現れた。
というのも右派をこれ以上追いつめると、新党へ鞍替えするメンバーが増えて、労働党はつぶれるのではないかと危惧しはじめ、左派内でも意見が分かれ、対立が起こり始めたのだ。
左派内でも分裂が始まり、歴史的惨敗を喫する
社会民主党という右派議員の受け皿ができたために、労働党はいつでも分裂可能になった。
さらに加入戦術で労働党内に潜入していたミリタント・テンデンシー派が勢力を伸ばし、過激な活動を始めて「きちがい左翼」と呼ばれ、労働党批判の格好の材料となったからたまらない。
ミリタント派の活動を評価するかどうかで、労働党は社会主義国家建設を目指すグループ(ハード・レフト)と民主主義的な運営を目指すグループ(ソフト・レフト)とに分裂して主導権争いに明け暮れ、統一感のないバラバラな政党になってしまった。
そういう混乱状態で臨んだ1983年の総選挙では、左派の主張である一方的核廃絶やECからの脱退などを公約として臨んだのだが、歴史的な大敗・大惨敗となってしまった。
労働党の得票率は28.3%と史上最低を記録し、社会民主党と自由党の「連合」に肉薄を許した。
また労働者の心を掴むと考えて打ち出された、ECからの脱退や一方的核廃絶の公約も受け入れられず、労働組合員からの支持も51%から39%へと激減した。
頼みの綱であった労働者からもそっぽを向かれ、第3党への転落すら見えてきた労働党は、中間派とソフト・レフトと呼ばれる民主主義重視派が、右派を含めたグループを結成して、新しい党首に41歳の若きホープ ニール・キノックを選んだ。