プランタジネット朝、第3代イングランド王ジョンの失政

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イギリスの議会制民主主義は、13世紀初めのマグナカルタから始る。

 

当時のイギリスはフランスに領土を持っていて、フランス王とその領土を巡って戦っていた。

 

ところがフランス国王との戦いにイングランド王ジョンが敗北し大陸に唯一あった領土を失ってしまう。

 

奪還作戦を企てたがそれも失敗。

 

さらに、失った領土からの収入を補填するための税金まで課税しようとする有様。

 

またローマ法王庁といさかいを起こし、ローマ教皇からも破門されるというおまけまで付いた。

 

これに怒ったのが戦いに参加したイングランド諸侯と、新たな税金を課されることになったイングランド国民たち。

 

スクラムを組んで国王に退位を求め始めた。

 

当時の国王は諸侯・貴族によって支えられている存在だからその諸侯や貴族に支持されなくなったら退位するか処刑されるかの二択である。

 

王党派(国王の味方に付く諸侯)の勢力は劣勢で、敵はフランスの諸侯まで味方に付け始めている。

 

国王の形勢不利は明らかだが、しかし退位したくないジョン王は、そこで一計を案ずる。

 

「これからはみんなの意見を聞くことにするから、国王を続けさせて欲しい」それを文章化して諸侯・国民と契約を結ぶ事にした。

 

それがすなわち「マグナ・カルタ(イギリス大憲章)」である。

 


マグナカルタ成立までの長い道のり

大陸にあった領土を失い、自ら退位するか処刑するかの二択を迫られたイングランド王ジョンは、退位する替わりに貴族や国民と契約を結ぶことにした。

 

それが1215年のマグナカルタ(イギリス大憲章)である。

 

マグナカルタの主な項目は、

  • 教会は国王から自由である
  • 王の決定だけでは戦争協力金などの税金を集めることができない
  • ロンドンほかの自由市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められる
  • 国王が議会を召集しなければならない場合の規定
  • 自由なイングランド民は国法か裁判によらなければ自由や生命・財産をおかされない
というもので、マグナ・カルタでは国王の権限を大幅に制限し、諸侯や国民の同意無しには戦争も課税も行えないとした。

 

これによって諸侯は国王に忠誠を誓うという契約であるが、同時に諸侯の反乱権も認められ、つまり諸侯はいつでも実力で国王に抵抗することも認められた。

 

ところがマグナカルタを承認して王位に留まったジョン王、実はこんなもの守る気がなかった。

 

そこで「約束を守れ」といきり立った反乱諸侯との戦争が始った。

 

これが第一次バロン戦争と呼ばれるモノである。

 

反乱諸侯は国王を倒すために、前年イングランド王ジョンをフランスで退けたフランスの王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世)をロンドンに招聘した。

 

ルイを怖れたジョン王はいったんロンドンを去り、ウインチェスターで態勢を立て直し、約1年間にわたりルイと戦い続けたが、その真っ最中の1216年に死去することになる。

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