ちょっと為替を操作しようと思っただけなのに…

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1976年のイギリスは、20%を超えるインフレが続き、ジワジワとポンド安が進んでいた。

 

為替レートは戦後ずっと固定相場制(ブレトン・ウッズ体制)だったのだが、71年のドル・ショック(ニクソンショック)のあとスミソニアン体制に移行し、さらに73年には変動相場制に移行していた。

 

変動相場制というのは、外国為替市場で通貨を取り引きし、そこで通貨の交換レート、すなわち為替レートが決まるという仕組みだ。

 

変動相場制へ移行して以降、経済発展がめざましい日本や西ドイツの通貨の価値は上がり、逆に経済が停滞しているイギリス・ポンドはゆっくりと価値を下げていた。

 

ここでイギリスの中央銀行であるイングランド銀行はポンド安の流れをさらに加速させてポンドを一段と切り下げ、それによって国内経済を活性化させようと目論んだ。

 

というのもポンド安になると、イギリス製品の国際競争力が増し輸出が伸びる。

 

また輸入品の価格も上がるから、国内の代替製品の売れ行きも良くなり、積み上がっている在庫も処分できて投資も始まる。

 

投資不足で行き詰まった経済を活性化するには、ポンド安にして輸出を伸ばすのが近道だとウィルソン労働党内閣や、イングランド銀行は判断したわけだ。

 

ところが政府や中央銀行が為替介入していると分かると、反対にそれを買って儲けようとするグループが出てくる。

 

100円で売れるモノを80円で売っていたら、それを80円で買って100円で売って儲けようと言う買いが入り、上手くポンド安に誘導できない。

 

なのでイングランド銀行は秘密裏に数週間に渡ってポンド売りを行い、ポンド安に誘導しようとした。

 

ところがこういう不自然な市場介入は、市場に様々な憶測を呼び、イングランド銀行が、ポンドがさらに下がることを見越して、ポンドを先売りしているらしいと見なされた。

 

ポンドの価値を保証しているのはイングランド銀行自身だから、その当事者が売りに走るのは正にインサイダー取引である。

 

倒産企業の経営者が倒産することを知っていて、自分の持っている自社株を市場で売って逃げるようなものだ。

 

だから「ポンドは何かヤバいぞ」ということになって、為替市場はパニックに陥った。

 

その結果、わずか一週間の間にポンドの価値は、イングランド銀行が目指していたレベルよりも下がってしまい、さらに下がり続けて下げ止まる気配がなかった。

 

まさに「ポンド暴落」である。

 


勝手な為替レート変更のツケ

世界の主要国が変動相場制に移行してまだ間もない1976年の初頭、ウィルソン労働党内閣とイングランド銀行は、密かにポンド売りを行って、少しずつポンドの為替レート切り下げようと画策した。

 

しかし為替レートの変更は、貿易相手国の経済にも影響するので、一国が勝手に変更して良いものではない。

 

自国通貨を切り下げたいのなら、その正当な理由、たとえば「今のレートは実力より高く評価されている」「急激な変動を緩和する」などと説明して各国の賛同と国際協調を得ないとレートは変更されない。

 

76年のイングランド銀行の為替介入も秘密裏で行ったため、市場に間違ったメッセージを送ることになってしまい、ポンド安が行き過ぎて暴落にまで発展してしまったわけだ。

 

そうしていったん悪い噂が広まってしまうと、信用を取り戻すには時間がかかる。

 

そこでポンドの価値を維持するためにイングランド銀行は、ポンド売りからポンド買いに方針変更しなくてはならなくなった。

 

こうなると次に問題になるのが外貨不足だ。

 

ポンドを買い支え続けるのには巨大な外貨が必要だが、手持ちの外貨が無くなる前に、ポンドが下げ止まる保証はない。

 

ポンドは自国通貨だし、管理しているのはイングランド銀行自身だから、いくらでも売ることができるが、ポンドを買うには外貨が必要だ。

 

なので通貨安定のためにアメリカなどの貿易相手国の中央銀行は、合計50億ドルの外貨融資枠(スタンバイ)を設定した。

 

暴落中のポンドでは国際取引の決済に使えないから、ポンドが持ち直すまでの半年間だけ、決済通貨を貸そうということだ。

 

ただしこれは半年程度の短期の融資であって、それ以上の融資の延長は認めないとアメリカに宣告されてしまった。

 

基軸通貨ドルを管理するアメリカから融資が受けられないとなると、残る手段は国連の機関であるIMFに融資を申請するしかない。

 

かくしてイギリスは、IMFの軍門に下ることになってしまったわけだ。

 


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