ゆりかごから墓場までは、実現可能なのか?左右の対立
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第二次世界大戦終結を受けて、安定過半数の議席を獲得した労働党アトリー政権。
復興のため、戦時体制下にあった石炭、鉄道、通信などの産業を国有化して失業者を減らし配給制を継続した。
また医師などを公務員化し、国家健康保険制度を作り、無償医療制度を敷いて復興を進めた。
しかしこれはあくまでも戦後復興のためであり、期間限定の特別な施策である。
バブル崩壊後の日本で、破綻した銀行を一時国有化したり、不良債権で身動きできなかった銀行に公的資金を注入したり、あるいは経営不振で倒産した日本航空(JAL)を国有化して再生させるようなことだった。
だからこのまま基幹産業の国有化や配給制度、無料医療制度や年金を続けるかについては議論が分かれた。
「ゆりかごから墓場まで」というのが労働党の社会政策であるが、無料医療制度や年金制度を維持しようと思ったら、莫大な税収が無くてはどうにもならない。
そのために所得税を引き上げてみたが全く足りない。
そこで他の儲かっている企業も国有化してしまえという労働党左派と、産業の国有化拡大には慎重な労働党右派で意見が分かれて対立していた。
アトリー労働党政権の5年間では、その左右対立が徐々に明らかになり、1950年の総選挙で労働党は、過半数ギリギリの議席しか取れなかった。
安定多数を目指してアトリーは翌年解散総選挙に打って出たが、党員の意思統一がうまくできず、さらに議席を減らし、連立交渉も失敗して、チャーチルの保守党に政権の座を明け渡してしまったわけだ。
共産党分子の加入戦術 始まる
1951年の選挙で敗北した労働党は、その後、左右の路線対立が続き、調整役としてアトリーがずっと党首を続けていた。
そのため影の内閣はどんどん高齢化し、労働党が政権を取っても目新しさがなく、魅力がないという状態が続いた。
得票率も40%台を保っていたが、激戦区の議席を獲得することができず、保守党から政権を奪回することはできなかった。
国有化を進めるのか、それとも別の方策を採るのか、左右両派で争っている状態の政党には、さすがに政権は任せられないという事だったのだろう。
このころから共産主義を信奉する党員も増え、トロツキーを信奉する過激な組織(ミリタント)も、1950年代から密かに労働党に参加し始めていた。
イギリスには19世紀から共産主義を標榜する政党もたくさんあったのだが、国民から全く相手にされず議席もほとんど獲得できなかったため、共産主義を目指す勢力は労働党や傘下の労働組合に潜入して、労働党の乗っ取りを目指すようになったのだ。
これを「共産党分子の加入戦術」と呼ぶが、労働党は元々マルクス主義の社会民主同盟(左派)と、フェビアン協会(右派)が合流してできた党だったから、加入戦術に対してほとんど警戒していなかったらしい。
そうして有力労組も、労働党も、次第に左傾化していくことになった。