炭坑の町は、運命共同体

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イギリスの炭坑労組が強硬で、最凶になったのにはそれなりのワケがあった。

 

というのも炭坑がある町というのは炭坑を中心に経済ができており、一種の運命共同体だったのだ。

 

イギリスで産業革命が始まったのは、1760年前後だとされているが、炭坑はそれ以前から存在し、石炭需要が増えるにつれて町も発展していった。

 

炭坑がある町は百年以上も前から存在し、炭坑町の住人は、炭坑で働いたり、炭鉱労働者にモノやサービスを売ったりして生計を立てていた、いわば町中が石炭産業だけで食っていたわけだ。

 

なので炭坑ストが長引いて給料が支払われなくなっても、労働者には出世払いで食べ物や生活物資が提供され何週間も何ヶ月もストを続けることができた。

 

こういう町ぐるみで炭坑を支える体制ができた背景には、労働党の初代党首 ケア・ハーディの活躍があった。

 

ハーディは炭坑育ちの炭鉱労働者だったが、キリスト教の布教や禁酒運動で培った話術を用いて、あちこちの炭坑で労働組合を作り、労使交渉のやり方を指南した。

 

そしてキリスト教的価値観で、炭鉱経営者や、炭坑町の人々に、労働者を大事にしないと発展はないと諭したから、労使交渉自体は失敗しても、待遇改善が進んだのだ。

 

山ほどあった社会主義政党・共産主義政党のなかで、ハーディが党首を務めた労働党のみが国民から支持を集められたのは、ハーディの宗教的道徳観に基づく、労働者を支える精神があったからだろう。

 

イギリス労働党誕生、いきなり小選挙区で29議席獲得できたワケとは?しかし労働党が国民から支持を集めるに連れて、労働党には共産党分子が紛れ込むようになった。

 

さらにソビエト共産党のトロツキーを信奉するトロツキスト達が「加入戦術」と称して労働党や労働組合に潜入して、労働党や労働組合を牛耳るようになり、炭坑労組は石炭で国民を脅す過激な組織になってしまったのだ。

 


実業家イアン・マクレガー 石炭庁総裁就任

労働組合が左傾化し、過激な暴力集団となった1970年代。

 

保守党のヒース政権は、炭坑労組のストを収拾できず退陣、労働党キャラハン政権も、公務員ストによる「不満の冬」問題で、マーガレットサッチャー率いる保守党に大惨敗を喫することになった。

 

過激な労働組合を抑えられなければ、イギリスは二進も三進もいかないところまで追いつめられた。

 

しかし労働党ですら手に負えなくなった労働組合を、そう簡単に押さえることはできない。

 

そこでサッチャーは来るべき炭坑労組との対決のために、石炭の備蓄や発電所の改造を指示し、労働組合の民主化法案を可決させた。

 

そして労組の過激な暴力行為を阻止するため、警察機構を再編して、全国どこにでも派遣できる機動隊を準備した。

 

しかしなかなか準備が進まなかったため、炭坑労組との決戦は先延ばしされた。

 

たとえば1981年にサッチャーは23鉱山の閉鎖を提案したのだが、石炭労組が全国ストに打って出る素振りを見せたので、驚くくらいあっさりと提案を取り下げ、5%の賃上げでストを回避した。

 

翌年もやはり同様で、あっさり賃上げ要求をのんでストを回避した。

 

というのも当時はまだ石炭の備蓄量が少なく、発電所の改造も進んでいなかった上に政権の支持率も低かったので、鉄の女もまだ決戦を挑める状況にないと判断したらしい。

 

しかし83年の選挙で勝利した後には戦う準備が整ったため、スコットランド生まれの実業家、イアン・マクレガーを超高給で雇い入れて石炭庁の総裁に据え、石炭事業の合理化を始めた。

 

マクレガーは以前、英国製鉄を合理化し、ヨーロッパ一効率の悪かった同社を、最も効率の良い会社に変えた経歴があり、サッチャーは彼の手腕なら、赤字垂れ流しの石炭庁を改革できると考えたのだ。

 

ただし彼の手法は従業員を2年間で半分にする厳しいものであったため、炭坑労組はマクレガーがかなり厳しいリストラを突きつけて来るものだと予想した。

 

しかし実際にマクレガー石炭庁総裁が出してきた合理化計画は、85年末までに不採算の20炭坑を閉鎖し、全従業員の約1割に当たる2万人をリストラするという、意外に地味なものだった。


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