サッチャーの政策、経済的には成功

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サッチャーが最初に打ち出した様々な政策は、国営企業の民営化や労働組合の規制など、保守党前首相のヒースの政策とさほど変わりがなく、「ヒース政権にUターンだ」という批判を受けた。

 

しかしヒースは失業率や、財政赤字を見ながらであったため、思い切った政策を実行できずにいた。

 

というのも財政赤字を減らすために、財政支出を減らすと失業率が上がってしまう。

 

失業率が上がると、高福祉のイギリスでは失業給付がふくらみ、結局また財政赤字が増えてしまうと言う状態に陥っていたのだ。

 

そこでサッチャーは、失業率の上昇には目をつぶって、イギリス経済の再生を目指した。

 

そして質素倹約、勤勉、というプロテスタントの美徳を前面に押し出し、困難な政策でも国民に受容することをもとめ、国民が立ち上がることを鼓舞した。

 

また女性がまくし立てると男性が黙ってしまうと言う性質をよく知っていて、いざというときは怒鳴りつけて意見を通した。

 

サッチャーはまた、政治をやりきるために、慎重派議員を優柔不断な「ウエット」と呼び、閣内から徐々に追い出して戦闘態勢を整えた。

 

左傾化して共産党分子に乗っ取られた労働組合から、イギリスを取り戻すには生半可な態度では臨めない。

 

行き過ぎた社会保障によって軟弱に育ったイギリスを鍛え直すには、中途半端な妥協で解決しようと言うウエットは邪魔である。

 

なので初志貫徹すべく、「ドライ」な議員を閣僚に引き立て、石炭庁のように、外部から適任者を高給で雇うこともした。

 

その結果、国家公務員は22%も削減できたし、最高税率を大幅に引き下げたのにもかかわらず、税収も減らなかった。

 

※税収の対GDP比は、80年(35.4%)、89年(36.5%)また高インフレも第二次石油ショックがあったのにもかかわらず、80年代前半には収まってきたし、失業率も80年代後半にはかなり改善した。

 

※失業率、80年(6.8) 81年(10.5) → 88年(8.1)→89年(6.4)


分裂する労働党、そして第三の道

サッチャーがイギリス経済の再生のために、強硬な政策を打ち出す一方で、労働党は深刻な左右対立を迎えていた。

 

社会民主主義の行き詰まりに悩む右派と、急進的な社会主義で改革を目指す左派が、激しくぶつかり合っていた。

 

しかし相変わらず労働組合の力が優勢だったため、右派の大物議員の3人が脱退を表明し、新しく社会民主党を立ち上げた。

 

そして第3党に甘んじていた自由党との連携を模索したが、党として何を目指すべきかで意見がまとまらなかった。

 

労働党内の右派議員も、社会民主党に合流すべきか、それとも党内に残るべきか悩んでいた。

 

一方、社会民主党という受け皿ができたおかげで、労働党内の左派も右派をこれ以上追いつめると新党へ鞍替えするメンバーが増えるのではないかと危惧しはじめ、徐々に左派内でも対立が起こり始めた。

 

特に加入戦術で労働党内に潜入し始めたトロツキーを信奉するミリタント派が勢力を伸ばし、過激な活動を始めたからたまらない。

 

ミリタント派は過激な活動で「きちがい左翼」と呼ばれ、他党が労働党を批判するときの格好の材料となった。

 

このミリタント派の処遇を巡って、労働党内の左派グループにも、あくまでも社会主義を目指すグループと、民主主義的な運営を目指すグループに分裂し、そのせいで1983年の総選挙では惨敗を喫した。

 

労働党の得票率は28.3%と史上最低を記録し、社会民主党と自由党の「連合」に肉薄を許した。

 

労働組合員からの支持も、51%から39%へと激減させてしまった。

 

この大敗北を左派のリーダーは、右派の責任に転嫁しようとしたが、党内の中間やソフト・レフトと呼ばれる民主主義重視派は、右派を含めたグループを結成し、新しい党首にキノックを選んだ。

 

そして新党首キノックは、サッチャリズムとも、社会主義とも異なる、「第3の道」があるはずだとして、労働党の立て直しに着手した。

 


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