絶対王政は火の車

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16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパ諸国は絶対王政と呼ばれる体制に移行していった。

 

絶対王政というのは簡単に言うと、有力諸侯が消滅して、権力が国王に集中した状態だ。

 

絶対王政というと、なんだか国王が権力を伸ばしたようなイメージだが、実を言うと、かつての有力者だった貴族や諸侯が没落しただけである。

 

封建的な地代収入にだけ依存していた封建領主たちは、工業社会へと向かっていく時代の変化に乗り切れず、ドンドン没落していった結果、国王だけが残ったと言うことらしい。

 

そしてあまたの貴族が没落していく中で、最後に残った国王に、なぜ王権があるのかという議論が巻き起こる。

 

そこで王権神授説社会契約論などが提起されるが、納得のいく理論は登場せず、議会と国王はまたまた対立し始める。

 

と言うのも権力が集中したのは、封建諸侯の没落のせいであり、国王も実は地代収入などがドンドン減って、財政難に陥ったからである。

 

当時のイギリス王家の収入は、国王の領地から得られる収入のみであり、戦争をしたりする場合には戦費に充てる税を課税する必要があった。

 

収入は減り、逆に戦費はドンドンかさむようになっていったため、イングランド王家は国王の領土などを売って収入を得ていた。

 

つまり絶対王政と言いながら、王政は実は火の車であったわけである。

 


スコットランド王、グレートブリテン統一を夢見る。

17世紀のイギリスは、物価上昇によって自由農民(ヨーマン)や商人たちが収入を増やす一方、貴族や国王たちは逆に収入が相対的に減った。

 

そこでヘンリー8世以降のイングランド王は代々、王の領土を切り売りして戦費を調達していたのだが、その一方で新課税によって財政を再建しようとしていた。

 

女王エリザベス1世も倹約に励みつつ財政再建を目指していたのだが、その跡を継いだジェームス1世は新たな野心を抱いた。

 

というのも彼はイングランド王とスコットランド王を兼務していたため、両国の統一に情熱を燃やし始めたのだった。

 

そのために自身をグレートブリテン王と名乗り、通貨を統一し、イングランド国旗とスコットランド国旗を重ね合わせたユニオン・フラッグを作成した。

 

そしてジェームス1世の跡を継いだ息子のチャールズ1世も、イングランドのキリスト教を国教会に統一しようとし、スコットランド教会に対しても同じ事を要求し始めたからさあ大変。

 

これによってイングランド国内ではピューリタン(清教徒)の反発を招き、スコットランドでは教会の長老派から反発を招き、反乱が起こった。

 

チャールズ1世はスコットランドの反乱を抑えるために議会を招集して戦費を調達しようとしたが、それ以前に出されていた権利の請願を破棄して議会を解散していたため、反対派の議員を拘束して投獄しようと企てるが失敗し、これによって議会派と王党派によるイングランド内戦が始まる。

 

これがいわゆる清教徒革命(ピューリタン革命)と呼ばれる事件である。


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