ベルリンの壁崩壊とソ連解体

ベルリンの壁崩壊とソ連解体

ソビエト社会主義共和国連邦の没落

1985年 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の
第8代共産党書記長(最高指導者)に、
ミハエル・ゴルバチョフが就任した。

 

ゴルバチョフは最高指導者に就任するやいなや、
ペレストロイカ(改革)と
グラスノスチ(情報公開)の必要性を訴え、
ソビエト連邦の経済改革に乗り出した。

 

ソ連は、1917年のロシア革命(2月革命)後、
共産党(ボリシェヴィキ)による軍事クーデターによって誕生した
世界初の共産主義国家であったが、
共産党が指導する計画経済は、すでに破綻していたのだ。

 

共産主義国の計画経済では、
モノの値段は共産党が決める仕組みだったが、
政治的に価格と数量を決めたから、あちこちで矛盾が発生した。

 

たとえばモノの値段は商品に刻み込まれていて、
生産地から遠い地域でも決まった値段で売らねばならない。

 

そうなると生産地から遠い地域まで運んで売っても儲からず、
輸送コストがかさむ地方には物資が届かなくなった。

 

また、生活必需品のパンの値段は豚の餌より安い価格に決めたので、
パンを買って豚に与える農家がたくさん出てきて、パンが不足した。

 

工場では、生産量のノルマは質量(重さ)で決めていたから、
軽い方が良い製品でも、軽量化されずに重いモノばかり造られた。

 

学問的にもLSE(ロンドン大学)のハイエクは、1920年頃から、
共産主義国の計画経済は非効率きわまりないモノだとして、
経済計算による価格決定を否定していた。

 

ハイエクは、生産者や消費者が持っている個人情報は不明だし、
常に変動するものであるから、いくら計算しても効率的にならないと主張し、
1960年以降、レオニード・ハーヴィッツらによってそれが証明された。

 

つまり不特定多数が参加する(競争的)市場経済こそが、
最も資源を効率的に分配するシステムであることが、
すでに学問的に証明されていたのだ。
(情報効率性に関する厚生経済学の基本定理)



ベルリンの壁 崩壊

ソビエト共産党が指導する計画経済は、
学問的にも現実的にも破綻した。

 

限られた資源を配分するには、
競争的市場が最も効率的であり、
政府や当局が価格を決めると、
さまざまな矛盾が生じ、
物資が行き渡らないことがハッキリした。

 

さらにソ連では自由に投資を行うことができず、
西側諸国との技術交流もできなかったため、
LSI(半導体)などの先進技術開発で後れを取りはじめ、
軍事面でも次第にアメリカに太刀打ちできなくなっていた。

 

経済規模でも日本にGDP第二位の地位を脅かされ、
石油や天然ガス、黄金などの天然資源と、
反アメリカ国家への武器輸出でようやく面目を保っていた。

 

そこでソ連の最高指導者となったゴルバチョフは、
ソ連に市場経済の仕組みを導入しようと考え、
ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を始めた。

 

これによって国民の民主化要求が次第に強くなり、
1990年にはソ連共産党による一党独裁制の放棄、
複数政党制と大統領制の導入が決定された。

 

また武力と経済支援によって支配していた東欧共産主義国に対しても、
支援も内政干渉ももはや行わないと宣言した(新ベオグラード宣言)。

 

この宣言によって、ソ連の衛星国で、強制的に共産主義を行っていた
東ドイツやハンガリー、ポーランドやチェコスロバキアは民主化され、
1989年11月10日、東西ドイツを隔てていた壁が打ち壊された。

 

これがいわゆる「ベルリンの壁の崩壊」で、
この後、ソ連は崩壊し、東欧の共産主義国は次々と民主化されていった。

 

そしてソ連や東欧の共産主義の内情が世界に知れ渡ったことで、
共産主義や共産党支配が、いかに国民搾取をするものだったかがハッキリした。

 

ベルリンの壁崩壊やソ連の崩壊はもちろん、
共産主義政策を訴えていたイギリス労働党には大逆風であり、
そのため、新党首トニー・ブレアは、早急に労働党の方針転換と、
新しい方針を打ち出して、国民にアピールする必要に迫られた。

 

NEXT:トニー・ブレア 労働党改革に着手


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