労働党、小選挙区で、いきなり29議席獲得!

1900年、フェビアン協会、社会民主同盟、独立労働党、そして65の労働組合が集まり、労働代表委員会が結成された。

 

初代議長には社会民主同盟のラムゼイ・マクドナルドが選出された。

 

1906年には炭鉱労働者出身の下院議員で独立労働党の創設者のひとりであるケア・ハーディが議長になり、労働党と改称して選挙に臨み、いきなり29議席を獲得した

 

二大政党が有利だといわれる小選挙区制が1884年から導入されているのにもかかわらず、新顔の労働党がいきなり29議席を獲得するとはちょっと信じられない話である。

 

がしかしこれは、保守党に対抗するため、マクドナルドやハーディが自由党と協議して、自由党と労働党が反保守党の票を奪い合わないように、立候補者の調整を行ったからである。

 

自由党と労働党の協議によって、自由党は30の選挙区で立候補者を立てず、労働党候補たちは保守党候補を打ち破って、いきなり29議席獲得したわけだ。

 

労働代表委員会から労働党に改組して、いきなり29議席を獲得した最大の貢献者は、すでに下院議員として当選していたケア・ハーディだろう。

 

ケア・ハーディは炭坑出身の異色の下院議員であるが、このケア・ハーディという人間の存在無くしては、イギリス労働党の順調な船出はなかっただろう。

 

イギリス労働党では2006年、結成百周年を記念して、新たに胸像が建てられるほどの人物だったのだが、果たしてケア・ハーディとはいったいどのような人物だったのか。

 



ケア・ハーディ、炭鉱労働者上がりの現実主義者

ケア・ハーディは、スコットランドの子だくさんの家に生まれ、7才にしてすでに奉公に出ていたという。

 

10才になると炭坑で働き始め、小学校すら通えなかった苦労人だ。

 

当時のイギリスの庶民階級は、10〜14才の年齢になると家を出て、少し上流の宅に手伝いとして住み込む。

 

そこで様々な経験を積んだり、技術を覚えたりして21才になると独立するのが普通だったという。

 

しかしハーディは貧しい家計を支えるために家を出ず、炭坑で労働者として1日10時間以上働き、そのあと夜間学校へ通うという子供時代を過ごした。

 

また父親の転職に伴い土地を点々とし、あちこちの鉱山で働いて成人するに至った。

 

そして視野を広げるためにと始めたキリスト教の布教や禁酒運動の手伝いによって、ハーディの人生は大きく変わっていくことになる。

 

休日の布教活動で巧みな話術を身につけたハーディは、その腕を買われて経営者との交渉役を引き受けたのだ。

 

巧みな交渉力を怖れた経営者によって、ハーディは働いていた鉱山をクビになるものの、その話術や交渉力を買われて、あちこちの炭坑に出向いて労使交渉を指南したり、組合がない炭坑では労働組合を作っていくという、いわゆる「オルグ活動」のスペシャリストになっていく。

 

このケア・ハーディの記事を読んで面白いのは、労働組合設立や労使交渉は失敗するのに、失敗した後になると、なぜか上手く行くという話が目立つことだ。

 

ハーディの話術は布教活動で身につけた話術であるから、どこかに道徳的な要素が含まれていて、騒動が落ち着いて改めて考えてみたら、「そのとおりだ」と考えが変わったのかも知れないね。


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