トニー・ブレア 労働党改革に着手

トニー・ブレア 労働党改革に着手

実現可能な社会主義とは

1989年、ソ連のゴルバチョフ書記長は
東欧への内政不干渉を宣言し、
東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊した。

 

そして1991年にはソビエト連邦は解散し、
それぞれの国家が独自路線を歩むことになった。

 

ソ連解体後、共産主義国での
悲惨な経済状態がどんどん明るみに出て、
共産主義や共産党が、
いかに経済をダメにするのかがハッキリした

 

長年に渡って基幹産業の国有化など、
共産主義的政策を主張していた労働党にとって、
これらの事件は超特大のイメージダウンであり、
政権奪還には、相当思い切った方針転換が必要だった。

 

そこで1994年に新しい党首となったトニーブレアは、
秋の労働党大会で、新しい労働党の向かうべき方向を明らかにした。

 

ブレアはまず、サッチャー政権による
行き過ぎた自由化や市場万能主義を批判した。

 

保守党政権は、新自由主義を掲げ、
個人に最大限の自由な活動を許せば、
社会が上手くいくという荒っぽいイデオロギーで、
社会におけるコミュニティの役割を無視してきた。

 

しかしブレアによると、人間は社会的な生き物であり、
コミュニティなくしては存在し得ないものであるという。

 

社会の構成員が互いに助け合ってこそ自由や幸福を手にしうるし、
個人は、強力かつ人間味のあるコミュニティの中でこそ、
より良く生きてゆけるのだと主張した。

 

その一方でブレアは、マルクス主義をも否定した。

 

マルクス主義(科学的社会主義)では、
社会主義は特定の経済システムと不可分に結びつき、
基幹産業の国有化が必須とされていたが、
経済システムは社会主義とは切り離すべきであるとした。

 

というのも効率的な資源配分には競争的市場が不可欠であり、
国家介入や国有化では解決できないことは、
ソ連の崩壊をみても明らかだからだ。

 

つまり実現可能な社会主義は、
マルクス主義・科学的社会主義などではなく、
労働党が誕生以来ずっと大事にしていた
倫理的社会主義(自由社会主義)だと主張した。


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倫理的社会主義への回帰

イギリス労働党は、1906年に誕生した、
議員数たった2人の弱小政党だった。

 

炭坑労働者出身の下院議員ケア・ハーディが
労働者の意見を汲み取るために、
自由党から出て独立労働党を立ち上げたのだ。

 

そこへ社会民主主義のフェビアン協会や
社会民主同盟(マルクス主義系)の穏健派、
そして65の職能組合(TUC)が合流したのが
イギリス労働党の始まりである。

 

労働党の初代党首となったケア・ハーディは、
キリスト教の布教や禁酒運動などにも携わった、
現実的な社会改良主義者であり、キリスト教的社会主義者であった。

 

なのでマルクス主義の暴力的な革命論には耳を貸さず、
所得累進課税や学校無償化、年金制度、婦人選挙権導入、
貴族院の廃止などの、現実的な改革を訴えていた。

 

そのため労働党結成時には、過激なマルクス主義者は労働党に参加せず、
彼らは別の社会主義政党や共産主義政党を結成して活動していたのだ。

 

ところが労働党が国民の支持を得て国民政党に成長すると、
共産党をあきらめて労働党に加入する共産党分子が増え、
労働党に潜入して革命を行おうとするトロツキストも紛れ込んだ。

 

そして1970年代以降、
これらの共産党分子やトロツキストたちが労働党を左傾化させ、
イギリス経済を麻痺させて、国民の信頼を失った。

 

つまりイギリス労働党は本来、倫理的社会主義の政党であったのに、
共産党分子や過激なマルクス主義者に侵されたため、
内部分裂を起こし、国民から見放されてしまったのだ

 

そのためブレアは「倫理的社会主義への回帰」を求め、
労働党綱領第4条から「生産と交易の手段の公有化」の削除を訴えた。

 

この第4条は、労働組合が企業の国有化を主張する口実になっており、
労働組合によるイギリス経済の停滞や混乱を招いた原因であったのだ。

 

 

NEXT:全国遊説で、第4条改訂に成功


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