議会制民主主義の歴史記事一覧

民主主義というのは、国民の選挙によって政治の担当者・責任者を決める仕組みである。民主主義というモノがどうやって誕生し、どうやって西欧社会に定着していったのか、ひとつづず見ていくことにしよう。まずは、議会制民主主義の元祖イギリスの民主主義について。イギリスは二院制議会の元祖でもあり、現在も二院制を維持している。二院制とは、政治を審議するグループを二つ作って、より良い議決を得るための仕組みである。イギ...

イギリスの現在の政治体制は、我々日本人から見ても謎が多い。国王がいるのに権限を持たず、上院と下院があるのに、なぜか下院の方が強い。上院と下院なら、フツー上院の方が強いだろう。実際アメリカも二院制で、上院と下院に分かれているが、アメリカでは上院が優越権を持っているので、これだけでも不思議である。その他にも、対面座席の下院議会や、議長を「スピーカー」と呼ぶなど、様々な謎がイギリス議会にはたくさんある。...

イギリスの議会制民主主義は、13世紀初めのマグナカルタから始る。当時のイギリスはフランスに領土を持っていて、フランス王とその領土を巡って戦っていた。ところがフランス国王との戦いにイングランド王ジョンが敗北し大陸に唯一あった領土を失ってしまう。奪還作戦を企てたがそれも失敗。さらに、失った領土からの収入を補填するための税金まで課税しようとする有様。またローマ法王庁といさかいを起こし、ローマ教皇からも破...

13世紀初め、イングランド王ジョンが自らの保身のために承認したマグナカルタ。しかしジョンはそれを遵守する素振りを見せない。なのでイングランド諸侯たちはフランスから王太子ルイをロンドンに招聘した。ルイは何を隠そうジョン王がフランスで破れた相手でありジョン王はルイを怖れてロンドンを離れウインチェスターに逃げることとなった。そしてロンドンで反乱諸侯を味方に付けたルイと約一年にわたって戦いを繰り広げたが、...

イングランド王ヘンリー3世の失政に不満を抱き反発したイングランド諸侯(バロン)たち。シモン・ド・モンフォールを立ててヘンリー3世に王権の制限と国政の監視組織の設立を認めさせた。これを「オックスフォード条項」と呼ぶ。オックスフォード条項は翌年、強化されてウエストミンスター条項となる。因みにウェストミンスターとはロンドンの地名で、イングランドの国会議事堂であるウエストミンスター宮殿や戴冠式などの王室行...

第二次バロン戦争・ルーイスの戦いに完勝し、国王のヘンリー3世や息子のエドワードを捕らえたシモン・ド・モンフォール。ロンドンに戻ると各州から平民身分である騎士と都市の代表(市民)を招集して議会を開くことにした。英国議会はそれまで、貴族たちの集まりであったのだが、そこへ貴族以外の階層から代表者を集めた新しい英国議会を開くことにした。これを「ド・モンフォールの議会」と呼ぶがここからイギリス議会制民主主義...

13世紀初めに大陸内の領土の殆どを失い失政を重ねたイングランド王ジョンは、退位か処刑かの二択を迫られた。しかしジョンは一計を案じ、マグナカルタ(イギリス大憲章)を作成し、これを遵守することで王位に留まろうとした。マグナカルタの主な項目は、教会は国王から自由である王の決定だけでは戦争協力金などの税金を集めることができないロンドンほかの自由市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められる国王が議会を召集しな...

13世紀初めから終わりまで続いた国王と議会の権力闘争はマグナカルタ(イギリス大憲章)とウエストミンスター条項を国王が遵守し、貴族院と庶民院からなる二院制議会をイングランドにもたらした。その後もイギリスはフランスとの戦争を続け、14世紀にはフランス王位継承権を巡って百年戦争が起こる。一旦はフランスを支配下に入れたイギリス軍だが、ジャンヌダルクの活躍によってフランスに巻き返される。一方国内ではペストが...

13世紀のマグナカルタから300年がたち、その間にイギリスの勢力図も大きく変わった。ペストなどの伝染病が流行したため、農民を囲い込もうとした諸侯は、逆にワット・タイラーの農民反乱により、農奴制がとれなくなった。モンゴル帝国衰退によって始った大航海時代には、アメリカ大陸からジャガイモやトウモロコシ、トマトなどの新しい作物が伝わり、農業生産力も徐々に上がって、人口も爆発的に増えだした。またアメリカ大陸...

16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパ諸国は絶対王政と呼ばれる体制に移行していった。絶対王政というのは簡単に言うと、有力諸侯が消滅して、権力が国王に集中した状態だ。絶対王政というと、なんだか国王が権力を伸ばしたようなイメージだが、実を言うと、かつての有力者だった貴族や諸侯が没落しただけである。封建的な地代収入にだけ依存していた封建領主たちは、工業社会へと向かっていく時代の変化に乗り切れず、ドンド...

スコットランド王を兼務するチャールズ1世は、イングランド国教会による両国の統一を目論んだ。しかし母国スコットランドでは反乱が起こり、それを鎮圧するための戦費を調達しようとイングランド議会を招集するが上手くいかない。そこで反対派議員を逮捕しようとしたところ、その企てがバレて失敗してしまう。この事件をキッカケに足かけ9年にわたるイングランドに内戦が始る。チャールズ1世を支持する「王党派」は国教会を支持...

チャールズ1世が戦費調達のために1640年に招集したイングランド議会(長期議会)。課税や国教の扱いを巡って王党派と議会派が対立、足かけ9年にわたってイングランドでは内戦が繰り広げられた。そして議会派の勝利が確実になった頃、また新たな対立が生まれる。それは王党派との和解を目指す長老派と、国王を廃して独立を目指す独立派の対立だ。独立派に属していたクロムウエルはここで、軍事クーデターによって長老派を排除...

民主主義の定義の所でも述べたが、軍隊というのは国民搾取主体であり金食い虫である。だからつい最近まで、軍隊を常時維持するというようなコストがかかることは、やらないのが普通であった。つまり戦争が起こりそうになると兵隊を雇い、傭兵によって戦争をしていたわけである。日本でも戦国時代までは、常備軍を備えている大名は少なかった。というのも戦は秋や冬に行われるのが普通で、これは春から夏にかけては農作業などで忙し...

スコットランドの反乱を抑え、アイルランドも併合し、ジェームス1世が夢見たグレートブリテン統一をほんの数年で成し遂げたクロムウエル。ところが内戦が終わってみると、議会と軍の間で新たな対立が生まれていた。すなわち軍縮を求める議会と、それに応じられない軍の対立だ。王政であれば、戦争で活躍した人間に貴族の位や名誉と、領土や報奨金を与えて国に返せばそれでよかった。傭兵を使った戦争では、そうやって軍隊を解散し...

オリバー・クロムウエルの死後、反王党派でまとまっていた軍は四分五裂状態となった。議会派はもともとチャールズ1世の政策に不満を持つ様々な勢力の集まりであり、その不満はそれぞれ違うものであった。だから国王が追放され処刑されてしまうと、もともと考えの違う者同士だからまとまらず、議会も軍もまとまらなくなって混迷を極めた。そんなところにスコットランド軍が侵攻してきたもんだから、議会は共和政を諦めて、ブレダ宣...

国王がいるかどうかは民主主義とは無関係だ。たとえば共和政や共和国には、王様などの君主がいない。じゃあ共和政や共和国は民主主義だと思う人もいるだろうが、それは大間違いだ。というのも中国だって、王様がいないから立派な共和国だが、中国が民主主義国家だと思っている人は皆無だろう。現代では、共和政や共和国というのは、王様がいないっていうだけの意味でしかない。その一方で、議会制民主主義の元祖イギリスでは、今も...

国王を追放し、貴族院も解散し、共和制イングランドを作ったクロムウェル。しかし王政を打倒したモノのその後は混乱が続き、結局、軍事独裁政権になってしまった。その後の世界の歴史を見てみても、王政が倒れた後にできるのは、軍事政権か共産党独裁政権だ。というのも国王や皇帝が追放された後に、憲法を定めるために議会が招集されたり、憲法制定議会の代表を選ぶ選挙が行われたりするが、結局、軍隊や共産党が暴力によって政権...

17世紀後半のイングランドは、共和制という難しい制度に大混乱し、これに懲りて王政復古を行うことにした。共和制イングランドはたった11年で終わりを迎えイングランドはまた王国に戻ることになった。その王位に就いたチャールズ2世の在位は18年ほどでその間の議会は王党派が主導権を握ることとなり、国内政治は比較的安定した。しかし財政難は相変わらずであり、オランダとの戦争で戦費がかさんだために財政破綻を宣言した...

カトリック教徒であるのにもかかわらず、プロテスタント国の王位に就いたジェームス2世。ジェームスの王位継承権を認めるかどうかでイングランド議会はまっぷたつに割れたが、国王チャールズ2世は国王大権を使い、王位排斥法案が通りそうになると議会を解散し再招集しない作戦をとり、そのまま逝去。そうしてジェームスはなんとか戴冠するが、やはりカトリック教徒を重用し始める。信仰自由宣言を出して非国教徒の制限を解除し、...

プロテスタントの国イングランドの王に、カトリック教徒でありながら即位してしまったジェームス2世。議会に刺客(オレニエ公ウイレム3世)を送られ這々の体(ほうほうのてい)で家族を連れてフランスに再亡命する。しかしオランダと小競り合いを続けていたカトリック強国フランスのルイ14世はジェームス2世に助力し軍事力を提供する。そしてジェームス2世はスコットランドやアイルランドのカトリック勢力の助けを得て、イン...

スペイン継承戦争で一定の成果を上げ、フランスのルイ14世の野望を阻止した女王アン。ところが彼女の子供はことごとく夭折、つまり成人せぬまま亡くなってしまい、跡継ぎが育たなかった。そこで女王アンの死後、イギリス議会が国王として選んだのは、ジェームス1世のひ孫でドイツ連邦の一国、ハノーファー公国選帝候のゲオルク・ルートヴィヒ(ゲオルク1世)であった。ハノーファー公国(王国)は北部ドイツの国で、1866年...

1720年のイギリスは、空前の株式投資ブームだった。様々な起業家たちが登場し、新しい株式会社がたくさんできた。そんな株式投資ブームの中で人気を博したのが南海株式会社である。南海株式会社と言っても南海電車ではない。もちろん南海キャンディーズでもない。ザ・サウス・シー・カンパニーという貿易会社だ。南海株式会社は本業がふるわなかったため、国債を自社株で引き受ける権利を手に入れて「南海計画」というカラクリ...

1720年、南海株式会社の株価が暴騰して、イギリスに空前の株式投資ブームが起こる。二束三文の株も株価が上がり、無許可の株式会社の株も暴騰する。ところが上がりすぎた株価が、下がるのはあっという間である。金だけ集めて泡のように消えてしまう会社もありそういう泡沫会社を規制しだしたら、投資家心理もいっぺんに冷えて、暴落につぐ暴落。これがいわゆる「バブル崩壊」だ。ところがバブル崩壊騒ぎは、政界へ飛び火するこ...