タレントがいなければ、作ればよい

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戦前は大興業会社で、最盛期には47もの演芸場を持ち1,300人もの芸人やタレントを抱えていた吉本興業。

 

しかし空襲で演芸場を失い、戦後10年以上、演芸ビジネスから遠ざかっていた。

 

この10年以上のブランクは大きく、ヨシモトが演芸ビジネスを復活させても人気芸人やタレントは戻ってこなかった。

 

というのも戦災で演芸場を失ったヨシモトは、全芸人・タレントと契約を打ち切ったため、ツテがなかったのだ。

 

そこでヨシモトは、大御所の弟子世代の若い芸人中心で興業を行わなければならなくなった。

 

ところがこれが逆に団塊の世代に人気となるのだから世の中というのは面白い。

 

吉本興業はまず、新しくできた毎日放送テレビ(MBS)と組んで、毎週、テレビで劇場中継を流した。

 

劇場にお客を呼んで、お金を払ってみせるモノを、タダでテレビで見せる訳であるから、大胆な発想だ。

 

「テレビやラジオで演芸を見せたら、劇場に来るお客が減る」…と思われていた時代に、「とにかくまず見てもらって、それから劇場に来てもらおう」という発想転換がまず凄い。

 

そしてヨシモトは若いタレントをテレビやラジオにドンドン出演させて、タレントの認知度アップを図り、仕事をドンドン増やした。

 

テレビやラジオで顔と名前を売って、劇場や巡業で稼ぐという戦略だ。

 

そして1969年には、「ヤング・オーオー」と言う若者向け公開テレビ番組も作った。

 

ヤング・オーオーからは、司会を務めた笑福亭仁鶴桂三枝、そして明石屋さんまなどの数々の人気者が生まれ、吉本芸人を全国に売り込むことに成功した。

 



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新しい時代には、新しい人材・若者の台頭が必要

私は昭和35年(1960年)生まれの関西人だが、子供の頃、なんで上方落語の大御所は松竹芸能にいて、人気者の笑福亭仁鶴桂三枝がヨシモトにいるのかとても不思議だった。

 

しかしまだ人気のない若手落語家を、どんどんテレビやラジオに出させて顔と名前を売らせるのが吉本の戦略だったようだ。

 

テレビやラジオの仕事というのは、タレント単体の仕事であるから、それ自体ではほとんど儲かることなど無い。

 

しかしいったん顔と名前が認知されると様々なところから「余興」という名のお呼びがかかり、売れているタレントとそうでないタレントをひとくくりにしたパックを、高い値段で売ることができるテレビやラジオの仕事は数千円から1~2万円の仕事だが、余興の場合は数十万円以上の売り上げになる。

 

これは地方から関西を訪れる団体旅行客を、大阪の劇場に呼び込むと言う効果もあるので、吉本興業はとにかくまず、所属タレントをテレビやラジオに出してみるらしい。

 

そして吉本は若いタレントに対して非常に寛大で、隙があったら自分を売り込むようにチャンスを与えている。

 

たとえば吉本新喜劇にはベテラン芸人に混ざって、たくさんの若い芸人さんが出演しているが、若くてもみな平気で自分でギャグを作って披露する。

 

藤井隆さんなんかも無名だった15年以上前には、吉本新喜劇で飽きずに自分の持ちギャグをやっていた。

 

そして吉本は1980年に起こった漫才ブームを受けて、さらなる拡大戦略に踏み出した。

 

それがNSCというタレント養成学校の設立である。

 

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