建物は建てられても、タレントがいなけりゃ始まらない

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吉本興業というと、戦後生まれの私などには関西ローカルの興業会社という印象しかない。

 

しかし戦前から東京でもたくさんの演芸場を運営し、東西合わせて1300人もの芸人を抱えていたそうだ。

 

東宝や松竹と並ぶ3大興業会社で、プロ野球の巨人軍や日本プロレスの設立にも参加したというから確かに大きな興業会社だったんだね。

 

しかし戦争でほとんどの演芸場が焼けてしまったため戦後しばらくは演芸から遠ざかり、映画館経営で戦後の混乱期をしのいでいたそうだ。

 

そしてテレビが普及して映画産業が斜陽になった昭和34年頃、ようやく落語や漫才などの演芸部門を復活させることになる。

 

ところが吉本は、そこではたと困ってしまう。

 

というのも戦後10年以上も演芸から遠ざかっていたため、演芸場を復活させても、タレントがいなかったのだ。

 

建物だけ建てても、タレントがいなければビジネスにならない。

 

お金を生み出してくれるのはタレントであって、建物じゃない。

 

景気刺激策とか公共投資などと言って、建物ばかり建ててても、GDPが伸びないのと同じ理屈だ。

 

なので吉本はそこから、どうやったら人気タレントを作り出せるか、タレントを使ってどうやって劇場にお客を呼ぶかを延々考え始めることになる。

 

ヨシモトのタレント発掘と育成、そしてイベントの歴史の始まりだ。

 



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没落の吉本興業、若い世代の起用で復活

戦前は、東宝、松竹と並ぶ、3大興業会社だった吉本興業。

 

ところが東京や大阪の演芸場のほとんどが戦災で焼けてしまい演芸から遠ざかっていた。

 

なので再び演芸場を始めようとしたのだが、人気の芸人や喜劇タレントは松竹や東宝などに所属し、劇場だけ復活させても、出演させるタレントに困ってしまった。

 

落語や漫才の人気者はみな松竹芸能に所属していて、吉本の劇場に出演させることはできない。

 

吉本と松竹は、戦前に松竹が吉本から大量に芸人を引き抜いた過去があって犬猿の仲。

 

だから芸人を借りてくることもできない。

 

だから初めは東宝の喜劇役者を借りて喜劇をやっていた。

 

これが後の吉本新喜劇の始まりになる。

 

また漫才や落語がない演芸場はあり得ないので、ぽっと出の若い落語家や漫才師を雇って劇場に出演させた。

 

師匠クラスの大御所や人気者はみな松竹にいて、引き抜くわけにもいかない。

 

しかし弟子クラスの若い芸人なら引き受けられたので彼らを雇って劇場に出したわけである。

 

いわば素人に毛の生えたような若手芸人や知名度の全くない若手タレントだけで興業を行い、そこから演芸のヨシモトを復活させねばならなかった。

 

戦前は大興業会社だった吉本興業も、戦後はそうしてまた一からのスタートだったんだね。

 

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