MANZAIブームが暴いた徒弟制度のウソ

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1980年に起こった漫才ブームは、吉本興業に一大変革をもたらした。

 

というのも若い世代の漫才は、それまでののんびりした掛け合い漫才とは違いすっかり新しい漫才へと進化していたのだ。

 

若者が機関銃のような激しさで、自由に雑多なことをしゃべりまくる漫才は、シンガーソングライターが自分で歌を作ってそれを自慢げに歌うような力強さと爽快感があった。

 

このブームによって「お笑い」は全国区になり、お笑いタレントは若者のあこがれる職業になった。

 

当時、劇場の入場者数が減って伸び悩んでいた吉本興業は、ここでまた新しい戦略に打って出た。

 

それがつまり、吉本芸能学院(NSC)という学校によるタレント発掘&育成である。

 

落語家は、師匠に古典落語を教わり、それを独自の芸風で披露する。

 

なので師匠に弟子入りして様々な噺を覚える必要があったが、漫才というのはそういった決まった噺というのがない。

 

日常の面白い出来事を見つけて、それをおもしろおかしく語るのが漫才であり、だったらそう言うことが好きな人間を集めて、自由に漫才をやらせればいいのではないか?という考えである。

 

そしてNSCからダウンタウンナインティ・ナインなどのスターが誕生し、若手芸人が出演する心斎橋二丁目劇場に、若い女性が殺到するようになったことから、また新しいお笑いのムーブメントが起こっていったわけだ。

 



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1980年の漫才ブーム以前の漫才いというのは、漫才作家が作った漫才台本を、漫才師が演じるというスタイルだった。

 

エンタツ・アチャコといった創生期の漫才師は最初は自身で台本を作っていたが、東大出身の秋田実氏が登場し、漫才台本をドンドン書くようになって、演ずる者と台本を作る者で分業が進んでいたのだ。

 

しかし台本を書く作家が年を取った結果、ベテラン漫才師の漫才は古くさいモノばかりになり、新奇を求める若者には受け入れられなかった。

 

一方、漫才ブームで台頭した若い漫才師達はそういう古くさい漫才を拒否し、自分たちで漫才を作りはじめた。

 

漫才師自体が面白いと思ったネタを集めて漫才にし、独自のセンスや新しいやり方でそれをさらに面白くした。

 

また素人演芸コンテストなどには、プロ顔負けの面白い人間がたくさん登場するようになり、演者の創意工夫さえあれば、師匠につかなくても面白い漫才ができるのは自明となった。

 

なので吉本はNSCを作ったわけであるが、当時は、「学校でお笑いなんか教えられるか」という風潮で、果たして学校で芸人やタレントが育てられるのか懐疑的だった。

 

ところが実際に若いタレント達が育ち、テレビでたくさん活躍しだすようになると、ライバルである松竹芸能も、東京の大手芸能プロダクションも、こぞって芸人養成学校を開くようになっていった。

 

NEXT:何も教えてくれない学校なのに、なぜか人気者が続々誕生。

 


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