富とはお金ではない。富の定義を確認!
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トフラーの『富の未来』を読んでいく前に、一つ確認事項がある。
それは「富の定義」だ。
まず「富(wealth:とみ)」とは、「金銭(money)」の事を意味しない。
富というと我々はついお金を想像しがちであるが、富とは「人間の欲求を満たすモノ」であって、必ずしもお金という形を取るわけではないのである。
たとえば「健康は財産だ」となどと言ったりするが、健康は「富」と呼べるものである。
お金がいくらあっても病気ばかりしていて、人生のほとんどが布団の中という人生は、果たして「富んでいる」といえるのか。
話し相手もなく、一人で寂しく死んでいく人生も、富んだ人生ではないだろう。
そしてまた、お金があっても、それが富として機能しないケースもある。
たとえば共産主義体制では、金銭は欲求を満たすモノにはならない。
日本では国民主権であり、日本国憲法が国家の一番上位の取り決めだが、共産主義国では大原則として、共産党の一党独裁支配であり、一番えらいのは人民でもなく、憲法でもない。
中華人民共和国にも憲法はあるが、その憲法では序章で中国共産党に指導を仰ぐとされていて、事実上中国共産党が憲法より上位だ。
こういう共産主義国や独裁体制の場合、富は必ずしも金銭という形を取らない。
お金がいくらあっても海外に出ることは容易でないし、政治批判や政党に対する苦情を言うこともできない。
合法的であっても、人道的であっても、共産党や独裁者に都合の悪いことは何もできないから、「欲求を満たすもの」として金銭は機能せず、富ではない。
かつてソビエト連邦では、共産党員だけが入れるお店やレストランというモノがあって、そこでは格安の値段でモノが買えたり格別のサービスが受けられたそうだ。
一般のソビエト国民が寒い中、長い行列を作って乏しい物資を買っている裏で、人民を指導する共産党の共産党員は、豊かな生活を送るための物資を必要なだけ手に入れることができ、並ばずに温かい食事を取ることができたわけだ。
こうなると、いくらお金を持っていたとしても殆ど価値がない。
共産主義体制では、お金は富でもなく富の象徴でもない。
共産党員であったり共産党に影響力を持つこと自体が富であり、共産党員だけにしか満たせない欲求があったわけだ。
富とは、人間が自分の欲求を叶えるために使えるモノであって、金銭の形を取る場合もあるし、金銭が何の役にも立たない場合もある。
ということで富とお金は違うものだって事は、最初に確認しておいて欲しい。