農業中心の社会

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人類は農耕技術を手に入れることによって、より多くの富を得て、多くの人口を養えるようになった。

 

食糧が手に入りにくい時期でも、保存しておいた食糧で命をつなぐこともできたし、他で取れた食物とモノを交換することもできるようになった。

 

しかし農耕が始まると、それまでにはなかった新しい社会やルールを作る必要も生まれてきた。

 

農耕社会になって初めて人々は分業を行うようになり、職業や規範が生まれた

 

農作業のために力を合わせたり、盗賊から収穫物を守るために村人は団結せねばならなくなり、そのための様々な役割分担や、ルールが必要になってきたわけだ。

 

ただし農耕によってできた社会だから、人々の価値観は全て農耕中心となった。

 

いかに安定的に収穫を得るか。

 

いかに村を外敵から守るか。

 

そのために自衛組織ができ、軍隊ができ、国家ができ、法律ができた。

 

また農業は自然環境や天候などに大きく影響を受けるので、自然に対する信仰のようなモノが生まれた。

 

そして国家や社会の規模が大きくなるに連れて、人間の生き方や社会のあり方に対する哲学や宗教が生まれた。

 

中世封建制社会(フューダリズム)では、自由農民も少なからず存在したがいわゆる農奴(セルフダム:Serfdom)が誕生し、農民は土地に縛り付けられ職業選択の自由や移動の自由が失われた。

 

中世封建制とは、国王が諸侯に領地の保護をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度であるが、農民に対しても同型と考えても良いだろう。

 



逃げる農民・追う領主

農耕社会の富の源泉は、農業生産物であった

 

農業生産には農地と農民が必要であったから、封建領主は農地と農民を囲い込むことに腐心した。

 

農民にも、定住して耕作を行う定住農民と、季節ごとに移動しながら耕作する農民がいて色々なのだが、条件が良ければどんどん鞍替えする農民もたくさんいた。

 

農業というのは耕す土地がないとできないから、通常は農民も土地にへばりつくしかない。

 

ところが新しく農地を開墾したりすれば、その土地を耕す農民が必要になる。

 

そうなると農民の移動が起こってくるわけだ。

 

日本でも戦国時代や江戸時代初期には、良い土地や良い条件を求めて、農民がドンドン逃げたり移動したりして、自分で領主を選んだりした。

 

それが余りにもひどくて幕藩体制を揺るがしかねたかったので、江戸幕府は農民の移動を禁じて元の土地に帰るように、お触れを出したくらいだ。

 

農耕社会の富の源泉は農業生産であるから、その生産を受け持つ農民は、それなりに遇されたのは当然だろう

 

ところが戦争などで領主が年貢を引き上げたり、ペストなどの流行病が流行って農民人口が減ったりすると、それまで鷹揚だった農民の扱いが厳しくなり、移動の自由が制限されたりした

 

その結果、様々な農民反乱が起こった。

 

14世紀のイギリスではワット・タイラーの乱、フランスではジャックリーの乱日本でも何度か大規模な農民一揆が発生した。

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