農業社会から工業社会へ、工業社会から情報社会へ。
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情報社会がどんな社会であるか、トフラーのテキストを読み進めていく前に、もう一度ここでおさらいをしておく。
トフラーは人類に起こった大変革を『第三の波』という著書で三つの波にたとえた。
まず第一の波は、農耕技術による大変革。
農業を基盤とする生活をするようになったこと。
それによって人類は村を作って定住し、収穫物を守るために守りを固め、国や宗教や文化や芸術を作っていった。
第二の波は、工業による大変革。
分業と化石エネルギーを使うことで、農業や工業の生産力を爆発的に増大させたこと。
産業革命の前には農業革命があって、200年ほどの間に人口が2倍になり、その増えた農産物や人口が産業革命による工業化を支えることとなった。
これによって人類は、時間に縛られるようになり、型にはまった行動をとり、都会に集まって住むことになった。
そして第三の波が、情報技術による大変革。
つまりパソコンやインターネットの普及によって、膨大な情報の生産と、情報のやりとりが行われるようになったこと。
これによって人類は、工業社会で強いられた時間や場所の制約から少し距離を置くことができるようになり、新しい価値観を築きつつある…ということだ。
ではその新しい価値観とは何か?…というのがここからの話である。
時間に縛られた工業社会、時間をコントロールする情報社会
トフラーによると、工業社会で我々に起こった重要な変化とは、労働と時間、金銭と時間が、強力に結びついたことだという。
農耕社会において、労働と時間は比例するものではなかった。
1時間当たりの作業量が増えても作業が速く終わるだけで、耕す田畑の広さは変わらないから、収穫量も増えなかった。
「速く終わって別の仕事をすればいい」と思うのは工業社会の価値観であって、農耕社会では、そもそもそんなに仕事があるわけではなかったのだ。
工業化された社会に住む我々にとっては想像しにくいが、農耕社会というのはかなり暇で、人もかなり余っているのである。
食うものと住む場所さえあれば人間は生きていけるから、農村ではたいてい人余りで、豊作が続けば人口は目一杯増える。
そしてその後の凶作で、バタバタと人が死んでいくわけである。
発展途上国が多産多死であるのは、農耕社会というのがそう言うものだからであろう。
ところが工業化で定型的な労働、つまり同じ事を延々繰り返すような労働に対して時間当たりの賃金が支払われるようになると、人々の時間に対する価値観は一変してしまった。
それまでは自然が相手であるから、一日に何時間働いても、生産物がそれに比例して増えると言うことはなかった。
しかし工業社会になると、働けば働くほど生産物が増え富が増えた。
だから起業家や地主は投資に次ぐ投資を行い、たくさんの労働者を雇って農産物や衣料など、様々な物資を大量生産した。
一方、労働者は働けるだけ働いて、当時贅沢品であった衣服などを買った。
それが何年も続くと、周辺地域から余剰人口がどんどん都会に流れ込み、新しく入ってきて増えた労働者のための産業も興ることになった。
ロンドンの都市圏人口も1800年には約86万人ほどだったが、百年後の1900年には650万人となり、世界一の大都市圏を形成するようになった。
これがつまり工業社会のキーワードの「集中化」と「規模の極大化」である。
その後、2回の世界大戦を経て、世界の工場はイギリスからアメリカ、アメリカから日本、日本から韓国や台湾や香港、メキシコなどのNIES、そしてブラジル・ロシア・インド・中国のいわゆるBRICsと移っていったわけだが、その後のイギリスに残ったのが「通信社」や「保険業」、「金融業」というのは示唆的である。
というのもこれらは、情報を主体とするビジネスだから。