スカーギル委員長、フライング・ピケット隊を編成

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1984年3月、石炭庁総裁イアン・マクレガーは、採算の取れない20の炭坑を閉鎖し、約1割の従業員を削減する計画を発表した。

 

マクレガーは英国製鉄のリストラで、約半数の従業員をリストラしていたから、意外に地味なリストラ計画であった。

 

しかし閉鎖予定の炭坑は、北イングランド、スコットランド、ウェールズの炭坑で、炭坑以外には特に産業のない地域であった。

 

退職者には高額の退職金が提示されたが、その後の就職先は用意されていなかったから、激しい抵抗が予想され、実際そうなった。

 

NUM(全国炭坑夫組合)のスカーギル委員長は、マクレガーの計画に対し、1984年5月、傘下の労働組合にストを指令し全国の炭坑でストが始まった。

 

スカーギル委員長は、10年前のヒース政権打倒時に、フライング・ピケット隊を編成し、炭坑ストを貫徹させた経歴があり、今回も同じ手法で全国の炭坑をストに巻き込もうとしていた。

 

ピケットとは、スト破りを見張る行為で、ストに参加しないで働こうとする労働者を追い返し、バリケードなどのピケット・ラインを築いて職場を封鎖することだ。

 

民主主義では、働くのもストに参加するも労働者の自由意志のはずであるが、それを認めると労働組合の主張が貫徹できないため、ストを行うモノは働こうとする労働者を職場に入れないようにするのだ。

 

スカーギルのフライング・ピケット隊とは、どこからともなくハエのように飛んできてピケットラインを張り、主要労組を強制的にストに巻き込んでしまう暴力的なモノで、これによって10年前、炭坑ストを全国に広め、保守党ヒース政権を退陣に追い込んだのだった。

 


内部抗争を始める炭坑労組

NUMのスカーギル委員長は、全国の炭坑労組にストを指示した。

 

しかしスカーギルに同調する炭坑労組は意外に少なく、他業種の労組の支援も得られなかった。

 

というのも採算の取れている炭坑では既に機械化が進んでおり、閉山の恐れも無かったからストを行う強い理由がなかった。

 

賃金も81年82年と連続して引き上げられていたから、リストラ対象でない炭坑の労働者にとって、スカーギルのスト指令は迷惑以外の何物でもなかったのだ。

 

業を煮やしたスカーギル委員長は、穏健派でストを回避しようとした労組に、突撃隊を送り込んでストを強行しようとした。

 

しかしこれは、しっかり訓練された警察の機動隊によって阻止された。

 

というのもサッチャーは10年前の炭坑ストを教訓とし、フライング・ピケ隊によるスト強制を封じるべく、機動隊を編成して入念に訓練を積ませていたのだ。

 

そして労組と警察の衝突より、労組内でのいさかいも増えた。

 

このストで警察に対する暴行や、公務執行妨害で検挙されたのは約2,000件であったが、労組内での暴力事件は1万件を超え、殺人事件も3件起こった。

 

一方、スカーギルの指令によるストは、組合員の投票によらない違法ストが多かったため、組合資金は凍結され、ストは資金難に陥った。

 

またスカーギル委員長を初めとする炭坑労組幹部は、言うことを聞かない組合員に対して様々な嫌がらせを繰り返したために、下部組合員は離反を始め、ストを支援する者もいなくなった。

 

そこでスカーギル委員長はなんと、リビアのカダフィ大佐に資金援助を申し入れた…と証拠写真付きで大衆紙にすっぱ抜かれて、このストを支持する者はいなくなった。

 

当局はここで、一時金(クリスマス・ボーナス)を支給するという提案を行い、多くの炭鉱労働者は職場に戻った。

 

そして1985年3月、約1年に渡って続いた炭坑ストは終結した。

 

最凶労組の企ては、周到に対策を準備していたサッチャーの完勝で終わった。


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