ギリシャ・デモクラシーの行方
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紀元前5世紀に直接民主制を打ち立てた古代ギリシャの都市国家アテナイ。
ペロポネソス戦争敗北後は、衰退の一途をたどっていった。
そしてスパルタを中心とするギリシャは宿敵ペルシャに対抗すべくマケドニアを盟主とするコリント同盟に参加しペルシャ帝国を滅亡に追いやる。
マケドニアのアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の没後ギリシャはマケドニアと敵対するようになり、アカイヤ同盟を結成して共和政ローマと組む。
ローマとマケドニアは何度も戦いを繰り広げたが、その途中でギリシャはローマと敵対し離反したため、ローマがマケドニアを滅ぼした後、ギリシャはコリントスの戦いでローマと戦い、その結果、ローマの属州となってしまう。
(紀元前146年)その後ギリシャは、ローマ帝国の分裂時に東ローマ帝国の中枢的存在になるが、東ローマ帝国が1453年にオスマン帝国に滅ぼされ、1829年にオスマントルコから独立するまで、国家としては存在しない時代が続くことになる。
因みにウィキペディアの記述によると、現在のギリシャというのは混血が進み、古代ギリシャ人の子孫とは言い難いようだ。
そしてデモクラシーはギリシャからローマへと舞台を移す。
というのもギリシャを属州化したローマも実は、紀元前5世紀に王政を廃して共和政となり、定期的に民会を開くデモクラシー国家であったのだ。
ローマとはどんな国だったのか?
民主主義・デモクラシーの発祥地ギリシャ。
そのギリシャを従えたのは宿敵ペルシャ帝国でもなく、アレクサンダー大王率いるマケドニアでもなくなんと共和政ローマであった。
プラトンやアリストテレスが生きた時代から、さらに200年後の話であるが、ギリシャがローマの属国となったことで、プラトンやアリストテレスの著作がローマ人によって後世に伝えられることになる。
さてそのローマであるが、元々はテヴェレ川の下流にできた、数千人規模の小さな国であった。
初代の王ロームルスは、狼に育てられたという伝説をもつが、もちろん真偽のほどはわからない。
ロームルスの没後、王になったのは、隣国の賢者ヌマであった。
最初にも書いたが、ローマ王というのは民会で選ばれていて、王の血族でなくても良く、さらにローマ市民でなくても良かったらしい。
戦いで打ち破った国の貴族や市民もローマ市民として優遇し、望めば外国人でもローマ市民になれたというから、ローマ人は実利を重んじる開かれた進歩的な市民たちであったようだ。
なのでローマ人たちは周辺国から王にふさわしい人物を呼び寄せ、有能な王の元で国力をジワジワと蓄えて領土を拡大していく。
ローマの水道などはこのころから作られ始めたらしいが、その技術は実は周辺国から導入したモノだったらしい。
しかしそんなローマ王国に転機が訪れる。
王政から共和政への移行だ。