ニール・キノック 労働党改革に着手する

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1983年、労働党の新党首となった41歳の若きホープ ニール・キノックは、炭坑夫の父親と看護師の母親の間に生まれた、まさに「労働党の子供」であった。

 

経歴もウエールズ出身で、炭坑で働いたり、警察で働いたり、軍で働いたりした後に大学へ進学した苦労人で、大学もウエールズ大学傘下のカーディフ大学という、非エリート大学の出身であった。

 

ニール・キノックはトリビューン・グループ(穏健左派)の一員で、前党首マイケル・フットに引き続き、左派出身だったのだが、様々な職種を経験した苦労人であり、現実的な感覚の持ち主であった。

 

そのため、キノックの労働党改革はまず、左傾化した労働組合や強硬左派との路線闘争で忙殺されることになった。

 

左派勢力が主張していたECからの脱退は、経済の相互依存体制(グローバル化)が進む中では、非現実的な案だとしてECとの協調路線へと変更することにした。

 

また一方的核放棄政策も、在英米軍の撤退とNATOからの脱退が必要であり、ソ連の脅威にさらされている現状では、国民の理解が得られないとして取り下げることにした。

 

1984年3月には、炭坑庁総裁に就任したイアン・マグレガーが炭坑閉鎖計画を発表したため、全国炭坑夫組合(NUM)のストが始まったが、キノックは4月にNUM委員長スカーギルに対し、ストを行うかどうかの全国投票を行うべきだと批判し、炭坑ストからは一歩離れた立場をとり続けた。

 


キノック 炭坑ストを支援せず

赤字を垂れ流す不採算炭坑の閉鎖計画に対し、全国炭坑夫組合NUMは反対を表明し、ストに打って出た。

 

NUM委員長で、マルクス主義者のスカーギルは、ヒース政権を退陣させた73年の炭坑ストを再現し、サッチャー退陣のための政治ストにしようと狙っていた。

 

ところがストの指示に従わない労働者やストを回避する炭坑労組もたくさんあったため、スカーギルはフライング・ピケット隊(突撃隊)を送ってストを強行させて全国に広げようとした。

 

一方、サッチャー政権は全国通報センターを設置し、違法なストが予想される地域に、素早く警察機動隊を送った。

 

サッチャーは秘密裏に、労使協調的な労組に対して、NUMに替わる第2の全国組織設立をも働きかけ、何が何でも全国ストを阻止しようとした。

 

そこでストを徹底しようとするNUMの活動家と、就労しようとする労働者、そして活動家を取り締まろうとする警察の三者が入り乱れて流血騒ぎが発生した。

 

労働党党首キノックは、4月中旬、スカーギル委員長に対し、ストをするならまず組合員の投票をすべきだと批判し、TUC(イギリス労働組合会議)幹部もそれに同調した。

 

サッチャーの「労働組合民主化」政策によって、組合員の事前の投票なしに行われる非公式ストはすでに違法とされていたが、スカーギルはそれを無視して全国ストを敢行していたのだ。

 

またフライング・ピケット隊による暴力的なスト強制も、完全に違法な暴力行為であるとして、非難した。

 

キノック労働党はもはや、そういう暴力的な政治活動には、加担しないと言うメッセージを国民に送ったのだ。

 


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