ケア・ハーディ 政界進出
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10才の頃から炭坑で働き、キリスト教の布教活動などで話術を身につけたケア・ハーディ。
父親の転職のたびに引っ越し、あちこちの炭坑で働いていたことが、労働組合活動でも役に立った。
ケア・ハーディがいなければ、大政党が有利な小選挙区制で、結成ホヤホヤだった労働党がいきなり29議席とるなんてことはなかっただろう。
ハーディは、平民首相グラッドストン(自由党)や、ユダヤ人首相ディズレーリ(保守党)が、労働組合法を作り選挙権を拡大していた頃、労働者の賃下げを目論む鉱山経営者との交渉を請け負ったり、組合がない炭鉱などで労働組合を結成し、団結して労使交渉にあたる術を指南したりしていた。
ハーディの活躍で面白いのは、労使交渉やスト自体は失敗しているのにもかかわらず、そのあとで結果的に労働者の待遇改善が起こっていることだ。
キリスト教布教や禁酒運動で身につけた話術や交渉術には、どこか否定しづらい道徳的な内容や、万人が納得できる合理性が含まれていたのかも知れない。
経営者側も、ただ闇雲に労働者をこき使っていたら、いずれ立ちゆかなくなるような将来イメージを抱き、労働者の待遇改善をしないといけない気になったのかも知れない。
一方、ハーディはその後、自由党に加盟して様々な運動に参加するのだが、次第に自由党での活動に限界を感じ始める。
というのも自助の精神を重んじるグラッドストンの政策は、急増している労働者階層の要望に応えきれないと感じ始めたのだ。
そこでハーディは下院議員になることを決意し、無所属で立候補しはじめる。
最初の立候補こそ当選することができなかったが、1892年の選挙では自由党の空白区で立候補し、保守党候補を破って初当選することに成功した。
ハーディ、労働党の船出を見送って引退
ケア・ハーディは所得累進課税や学校無償化、年金、婦人選挙権、貴族院の廃止などを訴えた。
また独立労働党を立ち上げ、労働者階級の票をあてにしていた自由党を脅かす。
1895年の選挙では落選するが、1900年に結成された労働代表委員会に合流し、下院議員に再当選する。
この時、労働代表委員会から当選したのは、ハーディともう1人だけであった。
しかし労働代表委員会(労働党)と選挙で争って共倒れになることを懸念した自由党は、労働党党首ラムゼイ・マクドナルドと選挙協力について協議しはじめる。
その結果、次の選挙で労働党が候補を立てる30の選挙区で、自由党は候補を立てないと言うことになった。
そして1906年にはケア・ハーディが議長に選ばれ、労働代表委員会は正式に労働党と改称する。
同じ年に行われた総選挙では、事前の選挙協力交渉が実を結んだのか自由党は大勝し、労働党も29議席を獲得することになった。
この時すでにハーディは50才を越えており、2年後には労働党の党首を後進に譲り政界から引退する。
ケア・ハーディは労働党の船出を見届けたことで、自分の仕事は終わったと判断したらしい。
彼の人生はイギリス労働党の立ち上げのためにあったようなモノだったわけだね。
労働党結成100周年記念で、新たに胸像が建てられるのももっともな話だ。