労働者階級の成長
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工業が発達し爆発的に人口が増えたロンドン。
仕事を求めて地方から出てきた労働者は、最初こそ安い賃金と長時間労働に甘んじていたが、経済成長とともに人手不足が続いたので、だんだんと雇用主と交渉を始めるようになった。
労働者たちは労働時間の短縮と賃上げを求め、団結してストを起こして労働争議をし始めたのだ。
これに困ったイギリス議会は、1799年に団結禁止法を制定して、ストライキなどの労働運動を弾圧した。
海の向こうのフランスではフランス革命(1799年)が起こり、民衆蜂起により王政が打倒されてしまった。
だからイギリスとしても国家防衛のために、労働者の団結が政府打倒に向かわないように、労働運動の広がりを規制しようとしたらしい。
イギリスの団結禁止法自体は、25年後の1824年に廃止されたのだが、代わりに新興都市の中産階級を中心に、選挙権の拡大を求める運動が活発化していった。
そして1832年の選挙法改正で、新興地方都市にも議席が割り当てられ、選挙権も小売店主レベルまで拡大された。
ただ、一般労働者に対しては未だ、何の政治参加の権利も与えられなかったので、労働者にも参政権を求めるチャーチスト運動(チャーティズム)と呼ばれる運動が起こった。
人民憲章 People's Charterと、労働運動の挫折
1832年の選挙法改正で、新興地方都市にも議席が割り当てられ、選挙権も小売店主レベルまで拡大されたイギリス下院議員選挙。
しかし都市に住む大多数の労働者には、未だ何らの参政権も与えられず、労働者の不満は次第に大きくなっていった。
ロンドンの議会改革の旗振り役 農業家ウィリアム・ラヴェットらは、労働者の政党を設立すべく1836年に集会を開き、ロンドン労働者連盟を立ち上げた。
そして
ラヴェットらは賛意を示した議員と協議の上、人民憲章(People's Charter)を取りまとめ、議会への働きかけを行うことにした。
この運動はPeople's Charter制定を求めた運動なので、チャーティスト運動だとかチャーティズムと呼ばれる。
ラヴェットが草稿を書き1838年にまとめられた人民憲章(下院における大ブリテンおよびアイルランドの人々の正しい代表を規定する法案)は、次の六箇条が挙げられ、国民誓願として翌1839年にイギリス議会に提出された。
- 成年男子普通選挙
- 秘密投票
- 毎年選ばれる一年任期の議会
- 議員に対する財産資格の廃止
- 議員への歳費支給
- 十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区
3度目の1848年の誓願提出時には30万人もの観衆が集まり、当時のリーダーだったファーガス・オコーナーは、警察からのデモ中止要請にも関わらずデモを決行したが、15万人もの人員を動員して対応にあたった警察に妨害され、あっけなく集会を解散するという事態に至った。