バーナード・クリックの『デモクラシー』を読む記事一覧

情報社会時代の民主主義。ここからはイギリスの政治学者であるバーナード・クリックの『デモクラシー』という書物から、民主主義の理屈を学ぶことにする。因みにこの本は、2002年にオックスフォード大学出版局から出版されたDemocracy: A Very Short Introduction(デモクラシー、とても短い入門書)というもので、ソ連や東欧の共産主義国崩壊後、10年以上たってからまとめられたものだ...

デモクラシーというのは今までレトリック、すなわち言葉の飾りとして用いられてきた。デモクラシーとはギリシャ語のデモス(民衆、群衆)とクラトス(支配)という言葉をつなぎ合わせたものであって、「民衆による政治・統治」という、漠然とした意味しかない言葉だったのだ。その結果、軍事独裁政権であっても、共産主義独裁政権であっても、統治者が王侯貴族でないというだけで勝手に「●●デモクラシー」と呼ぶことが出来たとい...

クリックの『デモクラシー』によると、デモクラシーという言葉の使われ方は、4つのタイプに分類できるという。1つ目のデモクラシーの用法は、少数による支配と多数の同意の混合だ。少数の支配と多数の同意の混合ってわかったようなわからないような説明だな。この考えは古代ギリシャの哲学者、アリストテレスに見られるという。なのでアリストテレスの考えを少しまとめてみよう。アリストテレスという人物は、ギリシャの北に隣接...

古代ギリシャの大哲人アリストテレスは国の統治の方法を6つに分類した。まず統治者の数に着目し、統治者一人の政治体制(政体)を王政・君主政と僭主政に分けた。王政とは国王を何らかの方法で選び王が国を統治する仕組みである。王様を選ぶ方法はさまざまで、国王になるための資格も特になく、古代は外国人でも奴隷でも国王や皇帝になった。もう一方の僭主政とは、僭主(せんしゅ)と呼ばれる影の実力者が、国の政治の実権を握っ...

古代ギリシャの大哲人、アリストテレスが「善き統治」としたのは、デモクラシー・民主主義ではなかった。プラトンやアリストテレスが生きたのは紀元前4世紀、古代ギリシャのアテナイ(アテネ)であるが直接民主制が始まってから年月がたっていて既に様々な問題点が見えていたらしい。因みに直接民主制というのは世界史で習ったと思うが有権者が直接議論し、議決に加わる仕組みである。アテナイの有権者(市民権を持つ成人男子)は...

民主主義・デモクラシーの起源は、古代ギリシャの都市国家アテナイの民会(エクレシア)だとされる。アテナイでは紀元前5世紀に、すでに直接民主制による議会があり、市民権を持つ成人男性は、アゴラという広場に月4回集まり、主に戦争に関する議題などを審議した。当時のアテナイの人口は、3万人の市民と、約6万人ほどの奴隷や在留外国人が存在していたというから、民会は数千人規模の集まりと言うことになる。しかし2500...

古代ギリシャの哲人プラトンやアリストテレスは、デモクラシーを善くない統治と考えていた。というのも当時のアテナイでは、アゴラという広場に市民が集まって、民会という直接民主制議会を開いていた。しかしそれは教養の低い貧乏市民たちが自らの利益のために政治を利用しようという場に堕落していたらしい。少なくともプラトンやアリストテレスの目にはそういう風にデモクラシーが映っていたということだ。特にプラトンの場合は...

紀元前5世紀に直接民主制を打ち立てた古代ギリシャの都市国家アテナイ。ペロポネソス戦争敗北後は、衰退の一途をたどっていった。そしてスパルタを中心とするギリシャは宿敵ペルシャに対抗すべくマケドニアを盟主とするコリント同盟に参加しペルシャ帝国を滅亡に追いやる。マケドニアのアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の没後ギリシャはマケドニアと敵対するようになり、アカイヤ同盟を結成して共和政ローマと組む。ロ...

イタリア半島のテヴェレ川下流に誕生したごく小さな国であったローマ王国。周辺国から有能な人物を選んで王位に就け、ジワジワと国力を伸ばしていった。また戦争で打ち負かした国の貴族や市民もローマ市民として受け入れ、彼らの持っていた様々な技術を貪欲に取り入れた。そうしてローマの王は、第6代まで民会での選挙や元老院の承認を経て選ばれたが、第5代の王の孫タルクィニウスは前王を暗殺し、勝手に第7代の王位に就いてし...

王政から共和政へと移行したローマ。共和政というのは簡単に言うと「国王や君主がいない」というだけのことで、国王や君主の仕事は誰かがやらねばならない。なので国王や君主の仕事を代行する、コンスルという執政官を2人選出し、ローマの統治を行うこととなった。コンスルを選ぶ民会は、ケントゥリア民会(兵民会)というもので、100人単位の軍団に一票を与え、国内の193のケントゥリアが票を投じて決める仕組みであった。...

隣国の賢者を王位に就けたり、敵国の貴族や市民をも取り込んで国力を増していった古代ローマ王国。元々元老院や民会の発言権が強かったが紀元前5世紀にはもう、独裁的な行動を取った国王を追放し、王政を廃止して共和政に移行していた。そしてさらに身分闘争・階級闘争を経てだんだん貴族政とデモクラシーが補完し合う混合政体というものを作り上げていく。混合政体というのは、貴族政と民主制が共存する政治体制で、貴族と平民が...

イタリア半島の小さな都市国家ローマ。北にはエトルリア人、南にはギリシア人、さらに北方にはガリア人(ケルト人)が南下し、いつ消滅してもおかしくない状況が続く。そんな中で優秀な人物を国王につけたり、周辺諸国の貴族や市民たちをドンドン取り込んで勢力を拡大していった。そして元老院や市民の承認無しに国王位に付いたエトルリア出身の国王を貴族と平民が協力して追い出して共和政に移行する。そしてさらに上流階級である...

イタリア半島を統一した共和政ローマ、さらなる繁栄を求めて、東西の地中海の覇権を求め出す。東にはマケドニアやペルシャ、西にはカルタゴ。いずれも強国であり難敵であった。まずイタリア半島の南にあるシチリア島に勢力を伸ばしていたカルタゴを追い払うことを画策する。当時のシチリア島はカルタゴ勢力とギリシャ勢力がしのぎを削っていたが、ローマは割って入ってシチリア島を手中にする。(第一次ポエニ戦争)シチリア島から...

カルタゴの軍神ハンニバルをどうにかこうにか撃退したローマ。ところがこの勝利から実は共和政ローマの崩壊が始まっていく。というのもハンニバルがイタリア半島を荒らし回ったせいで、農地はグチャグチャ、貴族も4分の1が死亡。そこで台頭してきたのが、戦争で属州化した土地の利権を持つ貴族たちである。属州というのは、ある程度の自治を認めるという名目の統治で正式な課税も大したことがなかったのだが、実際に派遣された総...

共和政から帝政へ移行したローマ。あれほど君主制を嫌っていたローマが、なんと皇帝を君主に据えることになってしまう。その背景には、拡大する領土に対して、民主的な統治システムが作れなかったことがあるだろう。喜んでローマの同盟都市になった国ならまだしも、戦争で討ち滅ぼした国では反ローマ闘争が繰り広げられた。そんな国にデモクラシーを持ち込んだら、逆に反抗勢力が勢いづかせることになってしまう。特にローマ本国か...