農業革命と、人口爆発

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西ヨーロッパの農業は、長らく三圃式(さんぼしき)農業であった。

 

三圃式というのは簡単に言うと、農地を3つの圃場に分けて、そのウチの一つを地力回復のために休ませなければならなかった農業だった。

 

雨の少ない西ヨーロッパでは、2年連続して作物を作ると、翌年には作物ができなくなったのだ。

 

そして休耕地では家畜が放牧され、少ない雨と家畜の糞尿で地力を回復させていた。

 

家畜は休耕地に生える草を餌として飼っていたので、飼える家畜の頭数も休耕地の広さで決まってしまっていた。

 

ところが土地や家畜を肥やすクローバーなどのマメ科の植物が広まり、ジャガイモやカブなどの中耕作物が家畜の餌に使えることがわかった。

 

クローバーなどのマメ科の植物の根っこには、根粒菌という最近が住んでいて空気中の窒素を取り込む。

 

窒素・リン酸・カリは植物の三大(無機)肥料と呼ばれるが、マメ科の植物は空気中の窒素を肥料として使うので、地力を奪わず逆に地力を回復させたのだ。

 

マメ科の植物は家畜を肥えさせた上に地力を回復させ、さらに肥料が少なくても育つジャガイモやカブなどでたくさんの家畜が飼えるようになったせいで、農業生産は急増した。

 

ヨーロッパの農業はこれによって三圃式から農地を効率的に利用することができる輪栽式(りんさいしき:休耕地のないローテーション農業)に移行した。

 

これを農業革命というが、農業革命によって人口は急増し、増えた人口はロンドンや植民地などに流れ込んだわけだ。

 

その結果、1600年にはわずか18.7万人ほどだったロンドンの人口は、1700年には55万人、1800年には80万人と4倍に増えた。

 

さらに1850年には232万人、1900年には650万人まで急膨張した。

 

わずか50年で400万人も増えたわけだから、19世紀後半には平均でも、毎年8万人もの人口が増えていた計算になる

 

ロンドンの人口推移


第一次世界大戦勃発で労働者の地位向上

第一次世界大戦前のイギリス議会は、保守党(地主階層支持)と自由党(産業や貿易商が支持)が2大政党であった。

 

ところが農業革命によって爆発的に人口が増え、増えた人口が労働者階級を形成し始めたため、イギリス議会は19世紀から少しずつ選挙権を拡大せざるを得なかった。

 

1832年の選挙制度改革では、新興都市にも議席が割り当てられ、有権者も中小商店主レベルまで拡大された。

 

1868年の第二次選挙法改正(戸主選挙権)では、男子戸主のみならず、間借り人の熟練労働者にまで、選挙権が拡大されて、有権者は2倍になった。

 

さらに1918年には21歳以上の男子全員と、30歳以上の女子も有権者に加えられた。

 

というのも1914年に勃発した第一次世界大戦で、ドイツの潜水艦攻撃と機関銃攻撃によって、イギリス軍は大損害を出し国を挙げた総力戦となったからだ。

 

そのため戦争に労働者も総動員する必要が生まれ、また戦争で男性が出払ってしまっため、女性も工場で働き出すようになった。

 

戦争に参加する階層の発言力が大きくなるのは、古代ギリシャや古代ローマでもおなじみの現象だが、これによって女性にも選挙権を与えるべきだという主張が通り、21歳以上の男子全員と30歳以上の女子も有権者に加えられた。

 

これによって有権者は、前回の4倍に増えることになった。

 

そして第一次世界大戦中の路線対立から、ロイドジョージ率いる自由党は分裂することになり、自由党を見限った商工業者たちは、次第に保守党支持へと支持政党を変えていくことになった。

 

ここでイギリスの政治は、保守党と自由党という二大政党から、保守党と労働党という二大政党を軸に動くことになったのだ。


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