赤旗を降ろすも支持率回復せず
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84年の一年間に渡る炭坑労組のストと、85年のリバプール市議会でのミリタント派の暴走。
これによって労働党は、さらにイメージを悪くし、「不満の冬」直後の79年の総選挙以来、サッチャーに3回連続で敗北を喫してしまった。
1987年の総選挙を前に、キノックは労働党のシンボルを赤旗から赤いバラに変更し、テレビ報道を意識したモダンなスタイルで演説を行い、必死に新しい労働党をアピールしたが及ばなかった。
得票率(27.6%→30.8%)も議席数(209→229)も多少回復しただけで、労働党に対する国民の目は厳しいままだった。
一方、政権を担当するサッチャー保守党は、79年からずっと得票率も42%台をキープし続け、議席数も安定過半数を獲得し続けていた。
つまりイギリス国民は高い失業率にもかかわらず、新自由主義を掲げるサッチャーを支持し続け、労働党は政権を担当する資格がないと判断していたのだ。
労働党党首キノックは、総選挙後に行われた党首選挙で、強硬左派のトニー・ベンを退けて、2期目に入ったのだが、さらなる改革を進める決意をし、ミリタント勢力の除名や、社会主義的綱領の破棄などの作業に取りかかった。
保守党と労働党の得票率と獲得議席数(1974-1987)
総選挙 | 保守党得票率 | 保守党議席数 | 労働党得票率 | 労働党議席数 | 総議席数 |
1974(10月) | 35.8% | 277 | 35.8% | 319 | 635 |
1979 | 43.9% | 339 | 36.9% | 269 | 635 |
1983 | 42.4% | 397 | 27.6% | 209 | 650 |
1987 | 42.2% | 375 | 30.8% | 229 | 650 |
史上最強の野党
1979年の総選挙以来、保守党のサッチャーに3連敗で、もはやあとが無くなった労働党。
党首として2期目に入ったキノックは、さらなる労働党改革を決心する。
まず手始めに、強硬左派が主張する、一方的核兵器の廃棄を党綱領から削除すべく、新しい労働党の国防政策を練った。
そして89年の党大会において激論の末、軍縮と多角的核廃棄への政策転換が了承された。
キノックはまた影の内閣に若手有望議員を起用し、労働党の世代交代を世間に印象づけた。
トニー・ブレアや、ブラウンなど、若手のホープを影の閣僚に指名し、「史上最強の野党」という評判を得るに至った。
一方、史上初の三連勝中だった保守党のサッチャーは、公共支出や公的機関をどんどん廃止していき、なんとロンドン市議会まで廃止してしまう。
奨学金制度も給付でなくローンに変更し、年金もカット。
赤字の大きな公立病院もどんどん閉鎖していく。
国営企業もどんどん外国企業に売却して、社会主義イギリスを解体していった。
それによって公共サービスの質が悪化し、サッチャー改革のマイナス面を国民は感じ始めた。
特に89年のコミュニティ・チャージ(人頭税)は、あまりにも不公平感が強く、サッチャー首相に対する支持は急速に衰えていった。
そうして1990年、サッチャーが退陣し、首相には保守党のメージャーがついた。
労働党は地方選挙でも勢力を回復し、政権奪還の一大チャンスを迎えた。
野党第一党を目前にしていた自由党と社会民主党の「連合」も、内部対立が表面化して支持率を減らしており、キノック労働党は政権奪回の大チャンスを迎えた。