高卒首相 ジョン・メージャー
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サッチャー辞任のあとを受け継いだのは、サーカス芸人の息子で貧困地域出身のジョン・メージャーだった。
メージャーは大学進学は諦めて労働者となった人物で、職を転々とし銀行の見習い事務員となった。
そこでマネジメントを学び、外国為替部門に引き抜かれ、10年で営業部長に昇進、会長補佐役も務めた。
イギリス企業には年功序列はなく、能力主義で昇進が決まる。
なので大学を出ていなくても昇進できるし、階級と仕事も別ということらしい。
メージャーは土木作業員から一流金融マンとなり保守党から立候補、サッチャー保守党が地滑り的大勝利を収めた1979年に初当選した。
そしてサッチャーから後継者指名を受け、党首選で勝利し47歳で首相となった。
この地味な高卒首相は、サッチャーの猛烈な反対を押し切って不人気の人頭税を廃止し、カウンシル税を導入した。
カウンシル税は、居住レート税の改良版であり、以前より広範囲の住人に負担を求めた税制で、国民に受け入れられた。
そして1992年の総選挙では、労働党有利と言われたにも関わらず、メージャー保守党は勝利を収め、保守党は初の4期連続政権担当。
一方の労働党は、戦後初の4連敗を喫し、18年も政権から遠ざかることになってしまった。
その原因としては、「不満の冬」から十年以上たっても労働組合のストによる悲惨な記憶が薄れていなかったこと。
そして労働党勢力の強い地方議会が、サッチャーの上を行く増税を行ったために「労働党は自分の都合で増税する党」というイメージが、強烈に印象づけられてしまったことだろう。
10年に渡って労働党改革に取り組んだ労働党党首キノックは、善戦したモノの敗北の責任を取って辞任した。
トニーブレア登場
キノックは有能な党首であったが、残念ながら話が無駄に長くて回りくどく、国民からの人気がなかった。
ただ労働党の若返りに多大な貢献をし、影の内閣には有能で弁の立つ若手を起用した。
その中には後に党首となる、トニー・ブレアや、ゴードン・ブラウンらがいた。
またキノックは、労働組合偏重になっていた党首選や候補者選びにもメスを入れ、党員の個人投票制を導入しようとした。
と言うのも従来のブロック投票制では、組合員の意志に関係なく、労働組合に都合がよい候補者が選ばれていたからだ。
そこで組合員や個人党員が直接投票できるような制度を導入して、労働組合に関係ない国民でも、労働党に関われるようにしようとした。
要するに「労働者の政党」から「国民政党」への脱皮を図ったのだ。
しかしミリタント派などの強硬左派(ハード・レフト)との闘争や、既得権益を守ろうとする労働組合との主導権争いに忙殺され、労働党改革はなかなか進まず、志半ばで辞任となった。
キノックの辞任後、労働党の党首を引き継いだのは影の内閣で蔵相であったジョン・スミスであった。
ジョン・スミスはブレアを影の内閣の法務大臣に指名し、ブレアは議会内でも目立つ存在になっていた。
そして94年5月に党首ジョン・スミスが心臓発作で急逝。
7月に党首選挙が行われることになった。
ここでブレアは同じ右派の有力候補だったゴードン・ブラウンと話し合い、ゴードン・ブラウンを蔵相につけるという約束をして、右派の統一候補として立候補する。
影の内閣の閣僚としてサッチャーと堂々と渡り合っていたブレアは、党首選で左派候補に大差をつけて当選。
41歳の新しい労働党党首が誕生した。