ローマ王国から共和政ローマへ
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イタリア半島のテヴェレ川下流に誕生したごく小さな国であったローマ王国。
周辺国から有能な人物を選んで王位に就け、ジワジワと国力を伸ばしていった。
また戦争で打ち負かした国の貴族や市民もローマ市民として受け入れ、彼らの持っていた様々な技術を貪欲に取り入れた。
そうしてローマの王は、第6代まで民会での選挙や元老院の承認を経て選ばれたが、第5代の王の孫タルクィニウスは前王を暗殺し、勝手に第7代の王位に就いてしまう。
この王は近隣の強国エトルリアの出身であったが、故郷であるエトルリアと同盟を結んで我が物顔で振る舞ったためローマ市民の反感を買い、ついには戦争に出ている間にクーデターを起こされ、ローマから追放されてしまう。
当時の市民というのは戦争のため、みんな武装していたから、貴族などの有力者が呼びかけ、一致団結すれば、いつでも王を退けることだって出来た。
というのも当時の戦力の主力はギリシャと同じく重装歩兵であり、貴族や有力市民は皆、しっかりとした武器と防具を持っていたからだ。
そしてローマ市民はここで王政を廃することを決意し、国王の替わりをする執政官(コンスル)という官職を作り、2人のコンスルによる共和制を敷くようになる。
ローマの民会も軍事集団から
国王を追放し、替わりにコンスルという執政官をおいて共和政を始めたローマ。
コンスルというのは、総理大臣兼総司令官であって、戦時には軍の総司令官として行動し、それ以外は内政を担当するという形であった。
ただし任期はわずか1年で、しかも2人体制であった。
ただしこの執政官の候補者は、貴族(パトリキ)の集まりである元老院が選定したため、平民階級(プレブス)から不満が出たり、追放したタルクィニウスによる反撃などもあってしばらく混乱が続くことになる。
ローマの民会は、ケントゥリア民会(兵員会)と呼ばれケントゥリア(百人隊)と呼ばれる軍団単位で行われた。
1ケントゥリアにつき1票が与えられ、193ほどのケントゥリアがローマ市外に集まり、市民全体の民会で政務官を選出する仕組みであった。
ただケントゥリアというのは軍団であり、貴族が率いていたから、この民会はかなり貴族の意向を反映する民会であった。
当時の貴族は国防とビジネスを担当する国家維持のメインプレイヤーであったから、当然だと言うところか。
しかしギリシャの場合と同じく、戦争が頻発するに連れて、平民階層の発言力が徐々に大きくなっていく。
その舞台となったのが、地域別の民会組織のトリブス民会であった。