マグナカルタから模範議会までのおさらい
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13世紀初めに大陸内の領土の殆どを失い失政を重ねたイングランド王ジョンは、退位か処刑かの二択を迫られた。
しかしジョンは一計を案じ、マグナカルタ(イギリス大憲章)を作成し、これを遵守することで王位に留まろうとした。
マグナカルタの主な項目は、
- 教会は国王から自由である
- 王の決定だけでは戦争協力金などの税金を集めることができない
- ロンドンほかの自由市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められる
- 国王が議会を召集しなければならない場合の規定
- 自由なイングランド民は国法か裁判によらなければ自由や生命・財産をおかされない
しかしジョンがマグナカルタを遵守する気配を見せないので、イングランド諸侯(バロン)たちは反乱を起こし、第一次バロン戦争が始る。
戦争のさなかにジョンは死亡し、その後は9歳のヘンリー3世が受け継ぐことになる。
ヘンリー3世の摂政たちはマグナカルタ遵守を約束し、この戦争は終結する。
ところがヘンリー3世の親政が始ると、またまた外政に失敗し、教会勢力とももめ、新しい税を課税しようと企て始める。
そこでフランス人貴族のシモン・ド・モンフォールたちが決起し、ヘンリー3世にマグナカルタの遵守とオックスフォード条項の受け入れを迫った。
シモン・ド・モンフォールの乱と模範議会
劣勢を悟ったヘンリー3世はオックスフォード条項受け入れを誓うが、諸侯の派閥争いに乗じてこれを一方的に破棄する。
これに怒ったのが改革派の諸侯たちで、イングランドは王党派と改革派で対立が深まる。
そして第二次バロン戦争が勃発し、シモン・ド・モンフォール軍が勝利を収め、ヘンリー3世や弟、そして息子のエドワードを捕虜にしてしまう。
政治の実権を握ったモンフォールは英国議会を招集するのだが、高級聖職者と貴族以外に、平民騎士や都市の代表者も議会に招集した。
というのもモンフォールが勝利できたのは、ロンドン市民の協力や民兵たちの協力があったからで、彼らの代表を議会に招集して、自らの改革を進めようとしたわけである。
この議会を「ド・モンフォールの議会」と呼ぶが、これをモンフォールの独裁と見たイングランド貴族たちは、王太子のエドワードが監禁から脱出したとしるや否や王党派に集結し、モンフォールの軍を打ち破ってヘンリー3世を再び王位に就けた。
ヘンリー3世の後を受け継いだエドワード1世は改革派と保守派の融合を図り、隣国のウエールズやスコットランドを屈服させて後のイギリス連合王国の基礎を築く。
そしてフランスとの戦争のための戦費を調達するため、騎士や市民の代表を含めた模範議会と呼ばれる議会を招集する。
これ以降、英国議会には騎士や市民の代表を必ず招集するようになり、14世紀には貴族院と庶民院に分かれて議論する形式に変わっていった。