マグナカルタを巡る戦い
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13世紀初め、イングランド王ジョンが自らの保身のために承認したマグナカルタ。
しかしジョンはそれを遵守する素振りを見せない。
なのでイングランド諸侯たちはフランスから王太子ルイをロンドンに招聘した。
ルイは何を隠そうジョン王がフランスで破れた相手でありジョン王はルイを怖れてロンドンを離れウインチェスターに逃げることとなった。
そしてロンドンで反乱諸侯を味方に付けたルイと約一年にわたって戦いを繰り広げたが、ジョン王はその最中に死んでしまう。
そこで王党派はジョン王の9歳の息子を即位させ、ヘンリー3世と名乗らせた。
そしてヘンリー3世の摂政(せっしょう)たちは、マグナカルタ遵守を掲げ、反乱諸侯の取り込みを図っていくことにした。
この作戦は成功して、王党派は徐々に勢力を回復し、ルイの軍勢はロンドンで立ち往生し始める。
そしてルイは支配していたロンドンの領土を放棄し、対価を受け取ってフランスに帰国することにした。
これが第一次バロン戦争と呼ばれるモノである。
あるいは男爵という爵位
オックスフォード条項
フランスの王太子ルイは、フランスに帰国すると南方の反乱の鎮圧で功績を挙げ、5年後にフランス王に即位してルイ8世となる。
獅子王と呼ばれたルイ8世は即位したあと数年で死亡してしまい、フランス王には12歳のルイ9世が即位する。
一方イングランド王ヘンリー3世は、成人して親政(しんせい:国王が直接政治をすること)を始めると、父親ジョンが失った大陸の領土奪還をめざし始める。
しかし父親同様の失敗を繰り返し、領土奪還に失敗する。
また大陸の貴族の要請で他へも侵攻するが失敗に終わる。
そうしてヘンリー3世は外征で失敗を繰り返したせいもあって、財政難に陥ったもんだから、諸侯や市民への課税を始めだした。
また国の重臣にフランス人を重用してイングランドのフランス化を図った。
それに対してイングランド諸侯や聖職者たちが反発を強めていたのだが、その先頭に立つことになったのは、なんとフランス人貴族シモン・ド・モンフォールであった。
実はモンフォール自体フランスから招聘された貴族だったのだが、地方での失政をとがめられたものだからヘンリー3世とは対立していた。
モンフォールはヘンリー3世に不満を持つイングランド諸侯と組んで挙兵し、その結果、国王に王権の制限と15人の貴族による国政監督組織の設立を承諾させた。
これを「オックスフォード条項」と呼ぶ。