ローマ人の身分闘争

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イタリア半島の小さな都市国家ローマ。

 

北にはエトルリア人、南にはギリシア人、さらに北方にはガリア人(ケルト人)が南下し、いつ消滅してもおかしくない状況が続く。

 

そんな中で優秀な人物を国王につけたり、周辺諸国の貴族や市民たちをドンドン取り込んで勢力を拡大していった。

 

そして元老院や市民の承認無しに国王位に付いたエトルリア出身の国王を貴族と平民が協力して追い出して共和政に移行する。

 

そしてさらに上流階級であるパトリキ(貴族)と、下層階級であるプレブス(平民)との間で身分闘争が始まるのだが、少しずつ少しずつ貴族特権が削られ、貴族と平民の垣根が低くなっていく。

 

このローマの身分闘争は主に、自作農を中心に繰り広げられるが最初の身分闘争は『聖山事件』だ。

 

これは共和政に移行してしばらくの話であるが、元老院やパトリキのやり方に不満を持ったローマ市民が聖なる山モンテサクロに終結して独立した新しいポリスを作ろうとした事件だ。

 

ローマの版図が広がるに連れて、貴族と平民の格差が広がって行き、不満が高まった。

 

ローマ平民とは自作農が多く、自費で兵装を整えて戦に出ているのに貴族ばかり得しているから、自分たちで国を作ってやるぞという騒ぎである。

 

このときに聖山に集まって開かれた民会が世界史などでは平民会と呼ばれるものでこれがトリブス民会の発祥になる。

 


貴族と平民の法的平等ができあがる

聖なる山に集まって新国家建設の気配をみせたローマ市民たち。

 

トリブス民会(平民会)では護民官(トリブヌス・プレビス)という役職を作り、気勢を上げる。

 

この行動に驚いた元老院やパトリキは妥協して事態の収拾に動いた。

 

その結果、平民会によって選出される「民衆を守る」護民官という役職をそのまま採用し元老院の政策決定に対して拒否権を一度だけ発動できるように法律を改める。

 

(紀元前494年)そして一方また慣習法で運営していたローマ法を明文化する作業も始める。

 

これはギリシャの明文法を元に、十二枚のプレートに書き込まれたもので一二表法という。

 

さらに百年ほどたって、コンスルの一人をプレブス(平民階級)から選出することも定められ、戦争で勝ち取った領土も平民に分配する仕組みができた。

 

(リキニウス・セクスティウス法:紀元前367年)さらに百年後には、トリブス民会の決定が、元老院の承認を得ずにローマの国法になることが定められた。

 

(ホルテンシウス法、紀元前287年)この結果、パトリキとプレブスという階級の差は法律上殆どなくなり、彼らはやがてノビレスという風に呼ばれるようになっていく。

 

こうして貴族も平民も法律的には平等に近づき、双方とも戦利品にありつける仕組みを作ったことで、共和政ローマはドンドン版図を拡げ、イタリア半島を統一していくわけだね。

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