「社会契約」の行方
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1976年の為替操作失敗によるポンド暴落で、IMF融資を申請する羽目になったイギリス。
ジェームズ・キャラハン労働党内閣は、30億ドルの財政赤字削減を義務づけられ77年と78年の2年間、緊縮財政を強いられることになった。
この結果、学校や病院などの建設は凍結され、イギリスの投資は民間・公共ともに落ち込んだ。
一方、インフレは1975の24.2%をピークに、16.6%(1976)→ 15.8%(1977)→ 8.3%(1978)と下がりつつあった。
これはイギリス労働党が1974年の総選挙公約で提案した政府・企業・労働組合の3社による「社会契約」が、一定の効果を示したということらしい。
第二次ウィルソン内閣で大蔵大臣を務めたデニス・ヒーリーは、1975年7月に「インフレへの攻撃」と題した白書で、年収8500ポンド未満の労働者に対して、向こう一年間(フェイズI:76年8月まで)の賃上げを、週6ポンドを上限とするという提案を行った。
TUC(Trades Union Congress:イギリス労働組合会議)は、この提案を受け入れ、平均10%程度の賃上げになった。
77年8月までのフェイズIIでは、3%程度の賃上げ案に対してTUC側は逆提案を行い、5%程度の賃上げになる週2.5から4ポンドの範囲での賃上げ交渉を求め、政府もこれを了承した。
ただし77年のインフレ率は15.8%であり、フェイズIIの賃上げは実質賃金の低下となってしまった。
インフレが15%で、賃上げが5%だったら、差し引き10%程度のマイナスになってしまう。
実際のところ、実質賃金は前年比で6%下落し、74年の4月を100とすると97とマイナスになってしまった。
これによって労働組合は労働党と離反し始めた。
再び活発化する労働組合の賃上げ交渉
10%台のインフレが続くイギリスで、5%程度の賃上げでは、実質賃下げになってしまう、そこで労働組合の中からだんだん不満が表明されはじめた。
そこでフェイズIII(78年8月まで)でキャラハン内閣は名目10%程度の賃上げ上限を提案したのだが、TUCはこの提案の受け入れを拒否した。
すなわち自由な個別の労使交渉を再開したのだ。
そして労働党政府の社会契約提案に従わず、労働組合が自由な賃上げ交渉をし始めた結果、彼らは実質7%もの賃金アップを勝ち取ることに成功した。
これによってイギリス労働党政権の社会契約協定は破綻し、4年目のフェイズIVでヒーリー大蔵大臣が提案した5%上限を遵守する民間の労働組合などなくなってしまった。
そうしてストが相次いだ1978-79年の冬、イギリス国民は怒りに震えて過ごすことになった。
イギリスのインフレ率の推移 66-90年
先進国のインフレ率・推移(1971-1980)
country | 1971 | 1972 | 1973 | 1974 | 1975 | 1976 | 1977 | 1978 | 1979 | 1980 |
イギリス | 9.4 | 7.1 | 9.2 | 16.0 | 24.2 | 16.6 | 15.8 | 8.3 | 13.4 | 18.0 |
日本 | 6.4 | 4.8 | 11.6 | 23.2 | 11.8 | 9.4 | 8.1 | 4.2 | 3.7 | 7.8 |
ドイツ | 5.2 | 5.5 | 7.0 | 7.0 | 5.9 | 4.2 | 3.7 | 2.7 | 4.0 | 5.4 |
フランス | 5.4 | 6.1 | 7.4 | 13.6 | 11.7 | 9.6 | 9.5 | 9.3 | 10.6 | 13.6 |
イタリア | 4.8 | 5.7 | 10.8 | 19.2 | 17.0 | 16.6 | 17.1 | 12.1 | 14.8 | 21.1 |
アメリカ | 4.3 | 3.3 | 6.2 | 11.1 | 9.1 | 5.7 | 6.5 | 7.6 | 11.3 | 13.5 |