労働組合に乗っ取られる英国労働党記事一覧

ミュンヘン・オリンピックの翌年、1973年10月、エジプトのサーダート大統領は、シリアのアサド大統領とリビアの指導者カダフィ大佐と連携し、ソ連(ソビエト社会主義人民共和国連邦)から買い入れた最新兵器を使ってイスラエル侵攻を開始した。第4次中東戦争の始まりだ。イスラエルはエジプト・シリア連合軍の奇襲的侵攻に、3日間で400両もの戦車を失い、占領していたシナイ半島のみならずイスラエル本国までアラブ勢力...

1973年冬、オイルショックに便乗した炭坑ストで、週3日しか工場が動かせなくなったイギリス。そこで「一体誰がこの国の統治者なのだ?」と訴えて総選挙に打って出た保守党ヒース首相であったが、残念ながら国民の支持を得ることができず、僅差でウィルソン労働党内閣が誕生した。ウィルソン労働党内閣はマニフェストで、労使双方の「社会契約」によってインフレと賃上げをコントロールする公約を掲げておりこれにイギリス国民...

ウィルソン労働党内閣の「社会契約」は、賃上げ幅の上限設定によって、インフレと賃上げの悪循環を断とうというアイデアであった。このアイデアは最初のうちは成功し、労働組合側も協力的であった。またウィルソン内閣は、公約に掲げていた、年金のアップや住宅補助金のアップ、そしてVAT(付加価値税≒消費税)の標準税率の引き下げ(10%→8%)もすぐに実施したので、ほんの半年だけ労働者の可処分所得は増えた。ところが...

オイルショック直後の最悪のタイミングで、法人税引き上げと企業課税強化を行ったウィルソン労働党内閣。74年には企業の税引き後利潤率がなんとマイナス0.3%となり投資が冷え込んだ。投資がなければ経済はまわらず、企業も利益がなければ賃上げにも応じられない。社会契約によって賃上げを企業に押しつけようにも、賃上げしたら倒産するような状態ではどうしようもない。ウィルソン労働党内閣は、この現実に直面して、選挙公...

自国通貨の価値・為替レートを一定に保つというのは重要な政策だ。為替(かわせ)レートというのは、自国のお金と外国のお金の交換比率のことだが、為替レートが安定していないと、事業計画が立てられなくて投資できないのだ。為替レートが大きく変動すると、儲かると思ったのに損をしたり、撤退しようと思ったら突然儲かって撤退し損なったり為替レートに振り回されるビジネスになってしまう。こういうのは一種のバクチであるから...

1976年のイギリスは、20%を超えるインフレが続き、ジワジワとポンド安が進んでいた。為替レートは戦後ずっと固定相場制(ブレトン・ウッズ体制)だったのだが、71年のドル・ショック(ニクソンショック)のあとスミソニアン体制に移行し、さらに73年には変動相場制に移行していた。変動相場制というのは、外国為替市場で通貨を取り引きし、そこで通貨の交換レート、すなわち為替レートが決まるという仕組みだ。変動相場...

1976年初頭、ウィルソン労働党内閣とイギリスの中央銀行であるイングランド銀行は市場介入によるポンド切り下げを画策した。しかし市場介入による市場操作は失敗し、ポンドの暴落を引き起こしてしまった。一方、労働党党首のウィルソン首相は、3月に突然の辞任を発表した。ウィルソンは実はアルツハイマー病を患っており、これ以上、首相としての仕事を続けられない状態だったのだ。ウィルソンの後任には、ウィルソン内閣で、...

1976年の為替操作失敗によるポンド暴落で、IMF融資を申請する羽目になったイギリス。ジェームズ・キャラハン労働党内閣は、30億ドルの財政赤字削減を義務づけられ77年と78年の2年間、緊縮財政を強いられることになった。この結果、学校や病院などの建設は凍結され、イギリスの投資は民間・公共ともに落ち込んだ。一方、インフレは1975の24.2%をピークに、16.6%(1976)→ 15.8%(1977...

1978年7月、大蔵大臣デニス・ヒーリーは、8月1日からの一年間の賃上げ交渉の上限を、5%にするという提案を白書で発表した。キャラハン首相は翌年の総選挙を見据えて、景気対策も踏まえて3%にすべきだと考えたが、他の閣僚の説得で5%というラインとなった。この提案はもはや「社会契約」ではなく、単なる「目安」の発表になってしまったのだが、TUC(イギリス労働組合会議)は当然のごとく拒否した。そして賃金上昇...

1979年1月、TGWU(運送業労組)はBP(英国石油)やEssoのガソリンを運ぶタンクローリィ運転手にストを指令し、イギリス全土のガソリンスタンドを休止に追い込んだ。市中のガソリンが無くなるのを待った上で、URTU(イギリス陸運業労組)もストを始め、イギリス全土の陸運の80%をストップさせた。このストの影響で、100万人以上の労働者が、一時帰休に追い込まれ、工場生産が止まった。TGWUは最低限必...

1979年1月の「行動の日」は、50年ぶりのゼネストとなった。TGWU(運送業労組)は1月3日からタンクローリィの運転手のストを指令し、ガソリンも灯油も無くなった。また運輸倉庫業労働者にもストの指令を出したため、イギリスの陸運の80%がストップした。TGWUの活動家は、モノを運ぼうとするトラックを妨害し、港湾や石油精製施設、道路にもピケットラインを張り、物流を徹底的に止めるという戦術に出たのだ。そ...

マーガレットは、地方の食料品店経営者アルフレッド・ロバーツの次女として生まれた。マーガレットの祖父は靴職人であり、マーガレットの父アルフレッドは、13歳で食料品店に奉公に出たあと独立し、二軒の食料品店を経営していた。「イギリス近代史講義」(川北稔)によると、当時のイギリスの労働階級の子供は14歳くらいになると男の子のも女の子も他家に奉公に出るのが普通だったらしい。そうして7年以上奉公を勤め上げたあ...

1947年にオックスフォード大学を卒業し、アイスクリームをなめらかにする研究に携わっていたマーガレット・ロバーツ。保守党の地域組織に加入してから、大きく運命が動き出す。マーガレットは大学で化学を修める一方で、ハイエクの思想や経済学に触発され、オックスフォード大学の保守党協会に参加し議長を務めるなどの活動もしていたのだ。そのため大卒保守党協会の代表として、保守党の地域組織に参加したわけだ。そしてオッ...

1974年、保守党のヒース首相は、暴徒化する労働組合を抑えられず、「いったい誰がこの国の統治者なのか」と総選挙に打って出た。しかし過半数の議席を獲得できず自由党との連立交渉にも失敗し、労働党に政権を譲ることとなった。ウィルソン労働党は公約であった年金の増額や「社会契約」でストを収めて再選挙を行い、わずかながら過半数を確保した。そこで保守党は解散総選挙が遠のいたと判断し、5年後の政権奪還を目ざして、...

1979年5月3日、マーガレットは、ダウニング街10番地に到着した。ダウニング街10番地とは、イギリス首相官邸の住所だ。ダウニング街10番地で、マーガレットが最初に手をつけたのは、ケインズ政策からの脱却だった。戦後、西側諸国ではケインズ政策によって、景気を下支えして失業率を抑えるという政策をとっていた。労働党の政策も、実はケインズ的な政策であった。ケインズ政策とは、ものすごく簡単に言うと、政府がお...

インフレ退治のためのサッチャーの政策は、金利の引き上げと財政赤字削減だった。戦後のイギリスでは雇用が最大の経済課題であり、失業対策でケインズ政策が採られた。投資を増やすために金利を引き下げ、政府による投資も増やすことによって景気を支え、失業者を減らした。ところがそうやって人為的に雇用を守っているのにもかかわらず、雇用が守られることを良いことにして労働者達はストに励んで賃上げをもぎ取り、終わりのない...

サッチャーは、財政赤字削減のため、VAT(Value Added Tax)の標準税率を8%から15%に引き上げた。VATというのは付加価値に課税する間接税で、日本でいうと消費税みたいなものである。VATは1973年に導入され、当初は10%の一律課税だったのだが、すぐにスタンダード(標準)、リデュース(軽減)、ゼロ、という3つの段階が設けられていて、生活必需品や子供用品の税率は低く抑えられるようにな...

マーガレットは、物事を白か黒で判断する性格であった。父親からピューリタン的な教育を受け、勤勉と質素が世の中で一番の美徳だという価値観を持ち続けていたらしい。また目的を達成する執念を持っており、目的達成のためには妥協することがなかった。そのためマーガレットは首相の座についても一切の妥協をせず、気に入らない公務員はバッタバッタと首にしまくった。そして財政赤字の垂れ流しを止めるため、財政支出の3分の2を...

フォークランド紛争勝利によって、国民的英雄となったマーガレット。悪性インフレ退治にも成功し、1983年の選挙でも勝利を勝ち取った。そこでマーガレットは、最凶の労組全国炭坑夫組合NUMとの対決を決意する。炭坑労組はコスト・プッシュ・インフレの元凶であり、ヒース政権を炭坑ストによって退陣に追い込んだ筋金入りの反保守党勢力だった。委員長のスカーギルは、マルクス主義者であり、事あるごとにサッチャー保守党内...

イギリスの炭坑労組が強硬で、最凶になったのにはそれなりのワケがあった。というのも炭坑がある町というのは炭坑を中心に経済ができており、一種の運命共同体だったのだ。イギリスで産業革命が始まったのは、1760年前後だとされているが、炭坑はそれ以前から存在し、石炭需要が増えるにつれて町も発展していった。炭坑がある町は百年以上も前から存在し、炭坑町の住人は、炭坑で働いたり、炭鉱労働者にモノやサービスを売った...

1984年3月、石炭庁総裁イアン・マクレガーは、採算の取れない20の炭坑を閉鎖し、約1割の従業員を削減する計画を発表した。マクレガーは英国製鉄のリストラで、約半数の従業員をリストラしていたから、意外に地味なリストラ計画であった。しかし閉鎖予定の炭坑は、北イングランド、スコットランド、ウェールズの炭坑で、炭坑以外には特に産業のない地域であった。退職者には高額の退職金が提示されたが、その後の就職先は用...

サッチャーの炭坑スト対策は、完璧であった。サッチャーは、スカーギルら共産党分子が支配する労組が、どうやってストを貫徹させるのか熟知していた。そしてそれが国民に受け入れられるモノではなく、いずれは破綻するものだと分かっていた。73年、石炭労組がヒース政権打倒に成功したのは、全国炭坑ストによって石炭不足を発生させ、石炭に頼るイギリス経済を麻痺させることによって国民の不満を政府に向かわせたからだった。つ...

1980年代まで、イギリスの労働者を支配していたのは労働組合であった。イギリスでは業種別組合が多く、炭坑夫は炭坑夫で組合を作り、看護師は看護師で集まって組合を作っていた。そのため経営者が労働者を雇う場合はまず、雇いたい職種の労働組合と協定を結び、組合に属している労働者を斡旋してもらった。こういうのを「クローズド・ショップ制」と呼ぶが、経営者にとって仕事ができる労働者は組合に頼めばよいし、労働者は組...

サッチャーは、質素倹約、勤勉を美徳とするメソジスト派のキリスト教徒であった。また個人の自由を尊ぶリバタニアンであり、労働組合による労働者の束縛は、悪であると非難していた。サッチャーによると、衰退するイギリス経済の元凶は、国民の生活に口出しする大きな政府であり、個人の自由な経済活動を保証する市場経済こそが有効であるという。高インフレと不況の併存が英国病であるが、その原因は、行政頼りの風潮を煽る大きす...

サッチャーが最初に打ち出した様々な政策は、国営企業の民営化や労働組合の規制など、保守党前首相のヒースの政策とさほど変わりがなく、「ヒース政権にUターンだ」という批判を受けた。しかしヒースは失業率や、財政赤字を見ながらであったため、思い切った政策を実行できずにいた。というのも財政赤字を減らすために、財政支出を減らすと失業率が上がってしまう。失業率が上がると、高福祉のイギリスでは失業給付がふくらみ、結...