自由な社会か、平等な社会か。20世紀の欧米民主主義国では、常にこの自由と平等という二つの価値観の間を、行ったり来たりする形で政権交代が起こってきた。たとえばイギリスでは、自由を重要視するのが保守党、平等を重要視するのが労働党で、保守党と労働党が交互に政権を担当する形で、国家が運営されてきた。そして保守党が政権に就くと、公営企業が民営化され、労働党が政権に就くと、基幹産業が公営化された。つまり保守党...
英国労働党の誕生と社会主義の現実記事一覧
イギリス労働党誕生の百年前、つまり19世紀のイギリスは、人口爆発の時代だった。イギリスの産業革命は、1760年代から1830年代の70年間に起こったとされているが、それに先立つ数十年に渡る農業革命で、農業生産が増えて人口が急増したのだ。ロンドンの人口が、どのように増えたのか、ターシャス・チャンドラーの推計で見てみよう。大ロンドンの人口は、1600年には18.7万人ほどだったモノが、1700年には5...
農業革命と産業革命によって、爆発的人口増加が起こったイギリス。ロンドンの人口は1800年代には100万人を超え、1850年には230万人にも達した。急増した人口のほとんどが労働者で、ロンドン周辺生まれの者や地方から流れ込んできた者で、押し合いへし合いごった返していた。世界最古の公共鉄道ネットワークである、ロンドン地下鉄(The London Underground:the Tube)も、1863年...
産業革命による発展と人口増は、イギリスの政治にも、大きな変化をもたらした。それが選挙権の拡大と、選挙公約マニフェストの誕生だ。繰り返しになるが、ここでイギリス議会の歴史を振り返ってみよう。イギリス議会の誕生は11世紀の、ノルマンディー公ウイリアム時代のキュリア・レジス(貴族会議)に起源があるとされる。当時は国王と聖職者、貴族だけの会議で、要するに仲間内の打ち合わせ会のようなものであった。しかし12...
工業が発達し爆発的に人口が増えたロンドン。仕事を求めて地方から出てきた労働者は、最初こそ安い賃金と長時間労働に甘んじていたが、経済成長とともに人手不足が続いたので、だんだんと雇用主と交渉を始めるようになった。労働者たちは労働時間の短縮と賃上げを求め、団結してストを起こして労働争議をし始めたのだ。これに困ったイギリス議会は、1799年に団結禁止法を制定して、ストライキなどの労働運動を弾圧した。海の向...
イギリスには21歳以上の男が602万人いるのに、84万人にしか選挙権がない。これを不服として成人男子全員に選挙権を与える普通選挙の実施などを議会に要求したチャーティスト運動。農業家ウィリアム・ラヴェットの草案を元にロンドン労働者連盟がまとめた市民憲章(People's Charter)を、1839年、国民誓願として議会に提出した。しかし2度にわたる提出も議会で否決され、1848年に3度目の誓願を行...
1860年代に再び要求が高まった選挙法改正。自由党の大蔵大臣・グラッドストンは、上級労働者である熟練工までを有権者とすべく不動産を持たない間借り人までを有権者とする選挙法改正案を提出した。この法案は下院でギリギリ可決されたのだが、同じ自由党議員から文句が付いて廃案になってしまった。その原因は、急激に有権者数を増やすと、何が起こるか分からないと危惧されたかららしい。というのも隣国フランスでは、フラン...
1868年の第二次選挙法改正(戸主選挙権)で、間借り人の労働者にまで選挙権を与えた保守党のユダヤ人首相ディズレーリ。自由党を分裂させるために、自由党急進派の要望をとりいれて、様々な制限をどんどん無くしていった。そうするとなんとグラッドストンの改正案よりも、多くの労働者に選挙権を与えることになった。ディズレーリの当初の法律案では、14万人しか有権者が増えなかったのだが、妥協に妥協を重ねた結果、なんと...
自由党グラッドストン政権は5年続き、内政面では十分な業績を挙げた。しかし外政ではあまり大した業績は上げられなかった。というのも早くから義務教育制度を敷き、強い国民を作り上げつつあったプロイセンが、オーストリアやフランスとの戦争に勝利し強大な勢力となりつつあったのだ。またロシアが影響力を増し、黒海まで勢力を伸ばし、地中海のイギリスの利権が徐々に削られていたのだ。そこで保守党のディズレーリはグラッドス...
19世紀のイギリスの政治の流れをいったんここでまとめておくことにする。まず産業革命による工業化が進み、労働時間の短縮と賃上げを求めた争議が増えた。しかし隣国フランスではフランス革命が起こり、民衆による王政打倒が実現されたもんだから、民衆蜂起を怖れたイギリス議会では、1799年に団結禁止法が制定され、ストライキなどの労働運動が弾圧された。この団結禁止法は、1824年には廃止されるのだが、これ以降、新...
戸主選挙権制が導入され、労働者の一部も選挙権を持つようになった19世紀後半のイギリス。保守党のユダヤ人首相ディズレーリは、労働者階級を取り込もうと、様々な労働者優遇政策を行ったが、労働運動家の多くは自由党に参加した。保守党には、地主や貴族などの関連議員が多く、敵対勢力だと見なされていたということらしい。一方、1880年代からは、地主階級による支配に反対して、土地公有化や企業の公有化が叫ばれるように...
1900年、フェビアン協会、社会民主同盟、独立労働党、そして65の労働組合が集まり、労働代表委員会が結成された。初代議長には社会民主同盟のラムゼイ・マクドナルドが選出された。1906年には炭鉱労働者出身の下院議員で独立労働党の創設者のひとりであるケア・ハーディが議長になり、労働党と改称して選挙に臨み、いきなり29議席を獲得した。二大政党が有利だといわれる小選挙区制が1884年から導入されているのに...
10才の頃から炭坑で働き、キリスト教の布教活動などで話術を身につけたケア・ハーディ。父親の転職のたびに引っ越し、あちこちの炭坑で働いていたことが、労働組合活動でも役に立った。ケア・ハーディがいなければ、大政党が有利な小選挙区制で、結成ホヤホヤだった労働党がいきなり29議席とるなんてことはなかっただろう。ハーディは、平民首相グラッドストン(自由党)や、ユダヤ人首相ディズレーリ(保守党)が、労働組合法...
1900年に労働代表委員会としてスタートしたイギリス労働党。1906年にはケア・ハーディ議長の下、労働党と改称して29議席を獲得する。ハーディが後進に道を譲って引退したあとも、労働党は着実に議席を増やし、1924年には151議席を獲得して、自由党との連立で政権を担当するまでに成長する。さらに1929年には第一党にまで上り詰め、労働党改称後わずか23年でイギリスを代表する政党にまで成長する。もちろん...
西ヨーロッパの農業は、長らく三圃式(さんぼしき)農業であった。三圃式というのは簡単に言うと、農地を3つの圃場に分けて、そのウチの一つを地力回復のために休ませなければならなかった農業だった。雨の少ない西ヨーロッパでは、2年連続して作物を作ると、翌年には作物ができなくなったのだ。そして休耕地では家畜が放牧され、少ない雨と家畜の糞尿で地力を回復させていた。家畜は休耕地に生える草を餌として飼っていたので、...
第一次世界大戦で人手が必要となり、男は戦場へ、女は工場へと駆り出された。ドイツの潜水艦攻撃によって、壊滅的な被害を被ったイギリスは、国を挙げての総力戦で国土を防衛する。戦争で必要なのは国民の団結であり、戦争に戦い抜くための国民の同意である。そのためにイギリス議会は1918年に、貴族や犯罪者を除く21歳以上の男子全員に選挙権を認め、さらに一部の女子の選挙権も認めることになる。これによって有権者数は約...
第二次世界大戦で勝利したものの、すっかり疲弊してしまったイギリス。戦費でGDPの250%もの借金ができ、海外の植民地を維持する費用どころか、生活必需物資の配給もままならなかった。アトリー労働党内閣は、このピンチを基幹企業国有化と配給体制でしのいだ。国内では1950年まで配給制が続き、所得税も引き上げられたのだが、石炭、鉄道、通信などの産業を国有化して失業者を減らし、配給制と医師の公務員化による無償...
第二次世界大戦終結を受けて、安定過半数の議席を獲得した労働党アトリー政権。復興のため、戦時体制下にあった石炭、鉄道、通信などの産業を国有化して失業者を減らし配給制を継続した。また医師などを公務員化し、国家健康保険制度を作り、無償医療制度を敷いて復興を進めた。しかしこれはあくまでも戦後復興のためであり、期間限定の特別な施策である。バブル崩壊後の日本で、破綻した銀行を一時国有化したり、不良債権で身動き...
60年代までの労働党右派勢力は、ケインズ主義的な社会主義を唱えていた。ケインズ主義的社会民主主義とは、労働運動の発展と、民主主義的政治、そして経済への国家介入システムにより、資本主義の矛盾は解決されると言うものだ。国家が積極的に経済に介入することで恐慌や貧困、さらに失業問題は解決され、さらに民主主義の進展によって福祉国家を作ることができるという主張である。実際、ケインズ的政策で戦後復興は進み、しば...
1964年の総選挙で、13年ぶりに政権を奪還した労働党、最年少記録である48歳にして首相となったハロルド・ウィルソン。ウィルソンの個人的人気もあって、安定多数を狙った66年の選挙では、狙い通り過半数を大きく超える364議席を獲得して政権を安定させる。ところが労働組合のストを起点とする終わりのないコスト・プッシュ・インフレが、イギリス経済を蝕んでいった。コスト・プッシュ・インフレというのは、生産コス...
1960年代のイギリスは、賃上げとインフレの悪循環で輸出品の国際競争力を損ない、世界の工場の面目をすっかり失っていた。そして世界の工場の称号もアメリカに奪われ、さらには敗戦国の日本やドイツにも追い抜かれ始める始末。そこで大きな問題となってきたのが、社会主義のジレンマだ。ジレンマとは、簡単に言うと板挟みと言うことだが、労働組合によって選ばれた労働党政権では、労働組合の暴走が止められないって事である。...
共産主義の元祖 カール・マルクスは、1867年の第二次選挙法改正で戸主選挙権が認められたとき、「多数派である労働者が選挙権を持つと、資本主義は必然的に社会主義になる」…と述べたという。イノベーション(革新)が社会を発展させるとしたオーストリアの経済学者シュンペーターも、戦前、資本主義の発展がこのまま続くと、社会は大企業・大組織だけになって官僚化し、企業家精神が失われて社会主義化すると予言した。しか...
1970年代前半のイギリスでは、左傾化した労働組合がますます過激化し、労働党さえも組合の意のままに動かそうと1973年綱領を採択した。その内容は一言で言うと、「イギリスの金目のモノは全部国有化し、労働組合が支配できるようにしてしまえ」と言うような内容であった。左傾化した労働活動家たちは、明らかに国民搾取主体化しており、国民の生活を人質にして私腹を肥やす腹だった。労働党左派出身のウィルソン党首も、さ...